(天理教の時間)
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第1311回2024年12月6日配信

彼女に足らなかったもの

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1276回

人生最大のラッキー

借金を残して蒸発した父親と44年ぶりの再会。再婚相手との間にできた娘さんの話になり…。

人生最大のラッキー

助産師  目黒 和加子

 

今から56年前、私が4歳の時、父が経営していた会社が倒産しました。父は倒産の後始末や債権者への対応などを全て母に丸投げし、浮気相手のキャバレーのホステスと蒸発、行方知れずとなったのです。母は気が狂いそうになり、私と弟を道ずれに死のうとしたこともありました。

親戚宅を転々とし、どん底から這い上がり親子三人で暮らし始めた頃、父の居場所が分かりました。私が小学五年生の時です。失踪から7年が経っていました。

母は家庭裁判所に離婚調停を申し立てました。調停が終わり帰宅した母からは、ただならぬ気配がしました。吊り上がった目は真っ赤に充血し、真一文字に結ばれた口からは、ギリギリと歯ぎしりする音が聞こえてきそうです。

「お母さん、どうしたん?」と尋ねると、母は堰を切ったように、「家庭裁判所の廊下の椅子に座ってたら、洗面所のドアが開いて、出てきたのがお父さんやってん。お母さんに向かって『いやあ、久しぶり。元気だった?』ってニコニコしながら言うてん。すみませんも、申し訳ありませんも、なんもないねん。あなたが投げ出した借金を返しながら、私と子供たちがどんな中を生きてきたのか分からないんですかって言うたら、肩をすくめただけでなんも言わんと、廊下の端の椅子に座って、ウトウト居眠りし始めたんよ!」

母の目は一層吊り上がり、下唇を噛み、怒りで身体が震えています。

「調停では、倒産の後始末を投げ出してホステスと逃げたことは認めたけど、現金書留でうちにお金を送っていたと嘘を言い出して…。私たちは親戚宅を転々としてたんやから、住所もわからへんのに送りようがないでしょう。そんなこと一度もありませんでしたって言うたら、『証拠ならここにあります。ほら、こんなに何度もお金を送っていました。借金を返済するのに十分な額で、生活の支えにもなりますよね』って、現金書留の控えを束にして見せたんよ!」

50年以上前、現金書留を郵便局に持っていくとメモのような控えが交付されていたらしく、父は輪ゴムでくくった控えの束を二つ、証拠として提出しました。その控えには送金先も差出人も書く欄がなく、現金の額だけが記されていました。どこかにお金を送っていたようですが、うちに送られてきたことはありません。

父は法科の名門として知られる大学法学部の出身で、法律に詳しく、自分が有利になる方法を熟知しています。田舎の看護学校を卒業し、結核病院で働いていた母が勝てる相手ではありません。父の主張は認められ、母は泣き寝入りをする結果になりました。

「お母さんはお金が返ってこないことに怒ってるんと違う。調停員を騙して、私が嘘を言っていると主張するのは大目に見ても、我が子にまで嘘をついているのが許せないんや! こんな人でなしを父親として生まれてきたお前たちが、可愛そうでならない。あんな人をお前たちの父親にしてしまって申し訳ない」と、泣き崩れてしまいました。

それまで母は、父のことを悪く言ったことがありませんでした。しかし、この時ばかりは我慢ならなかったのでしょう。小学五年生の私に、嗚咽しながら心の底を話しました。

それを聞いた私は、「まさか…お父さんがそんなことを言うやろか。お母さんの言うてることは嘘や」と思いました。私には父に可愛がってもらった記憶があるからです。それからずっと「嘘や」と思い続けてきたのです。父と再会するまでは…。

平成23年、ひょんなことから父の居場所が分かりました。なんと、私の所属する教会と同じ西宮市内に住んでいたのです。メモの住所を頼りに一人で訪ねました。44年ぶりの再会でしたが、名乗るまで私が娘の和加子だと気づきませんでした。

「どうぞお上がりください」と促され、教祖に付き添いをお願いして中に入ると、一緒に逃げた元ホステスのおばあさんがいました。気まずい雰囲気の中、お茶が一杯出されました。

「お顔を見に来ただけです。突然お伺いして申し訳ございません。これにて失礼致します」と椅子から立ち上がろうとすると、そのおばあさんが「和加子さん、うちの娘の由紀ちゃんに似てるわ。やっぱり血のつながりかしらね」と言い出し、アルバムを出してきたのです。

すると父も一緒になって、「これは家族旅行で北海道に行った時です。これはピアノの発表会で…」とニコニコしながら説明を始めました。ありえないと思いました。

浮気相手との間にできた子供をどんなに可愛がって育てたか。捨てた娘に対して、それを平気で話せる父を客観的に観察しました。「恩や人情をわきまえず、恥を知らない。人としてまともな心を持っていない」と結論を出しました。

 父の親バカ話を聞きながら、「五年生の時に母が言ったことはホンマやったんや。ほんまもんの人でなしや。私の父親に間違いないけど、この人に育てられてたら、自己中心的で人の痛みの分からない、とんでもない人間になってたわ。危ないところやった。これまではこの人に捨てられたことが、人生最大の不幸やと思って生きてきた。そうじゃない、そうじゃないんや。この人に捨てられて、この人に育てられんかったことは、人生最大のラッキーやったんや!」そう気づいたのです。

リスナーの皆さん、誤解しないでくださいね。決して父への嫌味、皮肉や当てつけで言っているのではありません。捨てられたことは神様のご守護であったと確信したのです。

この確信によって、心の奥底に40年以上根を張っていた父への恨みが消え去りました。そして、良いこともそうでないこともひっくるめて、この人生で良かったんだと受け入れることができたのです。

先日、父から葉書が届きました。老健施設に入所したようで、弱々しい字で「会いに来て欲しい」とだけ書いてありました。近々、新幹線に乗って主人と一緒に訪ねてみようと思っています。

 


 

だけど有難い  『喜びましょう』

 

「喜びましょう」と言うと、「元気なときならともかく、病気で苦しいときに喜びましょうもないだろう」と思う人もいるでしょう。しかし、元気で忙しいときは気づかないけれど、病気で寝ているから分かることもあるものです。必ずしも元気だから喜べるとは限りません。病気でつらいときだからこそ、じっくり考えてみることができるのではないかと思うのです。また一つには、病気で苦しい最中でさえ喜ぶ努力をしている―その心を、親神様はお受け取りくださいます。だから、「喜びましょう」と言いたいのです。

娘が小学一年生のとき、右目の上に大けがをしたことがありました。担任の先生が病院から連絡を下さったのですが、私はけがのことを聞くなり、「有難い」と思いました。

なぜなら、河原町大教会の初代会長を務めた深谷源次郎は、右目が潰れるところをたすけていただいて、本気で信仰を始めました。

私も赤ん坊のころ、右目の上に大けがをしました。父からよく「おまえは初代と同じように右目が潰れるところをたすけていただいた。あのとき、けがの場所がもう少しずれていたら失明していたかもしれない。たすけていただいて良かったな。目が見えるということは有難いな」と、聞かせてもらったものです。そして、今度は娘まで、たすけていただいた。だから私は、最初に聞いたときからうれしかったのです。

娘が病院から帰宅後、おさづけを取り次がせていただきました。取り次いでいる最中に、ぐっすり眠ってしまい、そのまま朝まで寝てくれました。

翌朝、娘に初代と私のたすけていただいた話をしました。

「今度は、おまえもたすけていただいた。いまは痛いかもしれない。でも、目を開けたら物が見える。有難いなあ。一緒にお礼をさせてもらおう」

そう言いますと、娘はニコニコして、それから神殿で一緒にお礼のおつとめをさせていただいたのです。治ったから、お礼をしているのではありません。けがをしたのに、お礼をしている。なぜなら、たすけていただいたことが分かるからです。親々のおかげではありますが、このように思案をすれば、けがも喜ぶことができるのです。

初代会長は「けっこう源さん」「ありがた屋の源さん」と言われるくらい、喜び上手でした。額を打っても「痛い痛い、有難い。痛いと感じさせてもらえることが有難い」と言ったそうです。痛くても「有難い」と、喜ぶ努力をしました。

ここにヒントがあるのです。それは何か。たとえば、冬の朝起きたときに、たまらず「寒い!」と口に出してしまっても、その後に「有難い!」と言ったらいいのです。何を喜ぶのか、何が有難いのか考えるのは、それからでいい。人間は「しんどい」と言っていたら、本当にしんどくなります。「有難い」と言って通らせていただくなかに、本当に有難い姿が見えてくるのです。

 

  「あちらでも喜ぶ、こちらでも喜ぶ。喜ぶ理は天の理に適う。」(M33・7・14)

  「日々嬉しい/\通れば、理が回りて来る。」(M34・7・15)

 

親神様は、このようにおっしゃっています。

「喜ぶ」ことは陽気ぐらしの原点です。病気で「痛い」「苦しい」思いをしている方も、ぜひ喜ぶ努力をしていただきたい。親神様は、子供可愛い親心いっぱいに、たすけるためにふしを見せてくださっているのです。

(終)

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