(天理教の時間)
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第1283回2024年5月24日配信

じいちゃんにまた会える日

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関根 健一

文:関根 健一

第1272回

喜びは今の自分の中に

講演会の最中、演台に立つ私を凝視する女性が。「四年前、傘を貸してくださいましたよね」と声を掛けられ…。

喜びは今の自分の中に

 大阪府在住  山本 達則

 

家族だから許せること。家族だから言えること。家族だから見せられる姿。それがあるからこそ、家庭は心安らぐ場所になるのだと思います。その一方で、家族と言えどもそれぞれに価値観の違いはあります。それを自然に受け入れられるからこそ家族なのですが、時に自分の思いを相手に押しつけ過ぎて、大切なものを見失ってしまうこともあるように思います。

以前、布教活動をしていた時、雨の日に傘も差さずに信号待ちをしている女性を見かけました。少しお酒も入っている様子で、「この傘を使ってください」と声を掛けると、「あなたはここで何をしているんですか?」と聞かれました。「私は天理教の布教活動をしている者です」と答えると、「そんなことをして、何かいいことがあるんですか?」と再び尋ねてきました。

私が「この活動をしていいことがあるというよりは、活動を通して今の自分の中にいいことが見つかっていくという感じですかね」とお答えすると、その女性は「ふーん」と言ったままその場を去って行きました。

その女性とはそれっきりでしたが、それから四年が経ち、ある時、地方で講演をする機会がありました。私が演台に立つと、明らかに他の人とは違った雰囲気でこちらを凝視する女性がいました。気になりながらも、話を終えて演台を下りようとすると、その女性が素早く近寄って来て、「先生は大阪の人ですよね」と尋ねてきました。

「はい、そうですが」とお答えすると、「私のこと覚えていませんか?」と言います。私が正直に「すみません、どこかでお会いしましたか?」と返すと、「四年前、雨の日に傘を貸してくださいましたよね」と言われ、一気に記憶がよみがえりました。

少しの時間でしたがお話を聞かせて頂きました。その女性は四年前、大阪に住んでいた時にご主人の転勤が決まったのですが、その頃は夫婦関係が悪く、ご主人について行くか、これを機に離婚するかで悩んでいました。子供がいないこともあり、気持ちが離婚に傾く一方、一人で人生をやり直すことに不安を抱えてもいたのです。

そんな時に私が布教活動をしている姿を見かけて、「この人はきっと、宗教に頼って、自分の不幸な人生をごまかしているだけだ」と思い、「そんなことをして、何かいいことがあるんですか?」という言い方になったのです。

ところが、「これをして何かいいことがあるというよりは、今の自分の中にいいことが見つかっていく」という意外な言葉が心に引っかかり、「離婚はいつでもできる。その前に、とりあえずは夫について行ってみるのもいいかな」と思い直すことができたと言います。

そう決めた途端、それまで気になっていたご主人の嫌な所が見えなくなり、それに連れてご主人の態度や言葉もやわらかくなったように感じられ、夫婦関係は見違えるほど良くなったのです。そして転勤して二年目にはじめて子供を授かり、今は二人目を妊娠中とのことでした。

「それで、どうして今日はこの講演会に?」と尋ねると、転勤で引っ越してきたマンションのすぐ近くに天理教の教会があり、そこの会長さんの穏やかな人柄にひかれ、度々教会に足を運ぶようになったそうです。その会長さんから講演会があると勧められ、ご主人に子供を預けて来てみたら、講師が私でびっくり!ということでした。不思議な再会のご縁を頂き、家族関係が修復されたという嬉しい知らせも聞くことができ、とても幸せな一日でした。

家族といえども、お互い希望も好き嫌いも価値観も、様々な面で違いがあります。それらを自分の思うがままに周囲の人に押しつけてしまえば、せっかくの関係が壊れてしまうことにもなりかねません。

時に私たちは、自分の思う通りに相手が変わってくれることを望み、待ち続けていることがあります。しかし、それでは喜びは近づいてきません。欲望を捨て、自分自身が変わろうと努力する中に、新たな喜びを見つけることができるのではないでしょうか。

「陽気ぐらし」へ向けた材料は、神様があらかじめ今の自分の中にたくさん用意してくださっているのだと、この出会いを通して、あらためて感じることができました。

 


 

待っていたで

 

私たちの信仰する親神天理王命様は、人類の生みの親であり、かつ育ての親でもあります。また、その教えを私たちに明かされた教祖・中山みき様を「おやさま」とお呼びしています。どちらも「おや」が付きますが、天理教の人間観は、親と子のつながりが基本になっています。親の立場である教祖は、常に子供がやって来るのを楽しみに待っておられる、そのような逸話が数多く残されています。

文久元年、西田コトさんは、歯が痛いので稲荷さんに詣ろうとしていたところ、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けてくださる」と聞いたので、さっそくお詣りしたところ、教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と、コトさんを優しく迎えられました。(教祖伝逸話篇8「一寸身上に」)

また、文久三年、桝井キクさんが、夫の喘息のため、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けたところ、教祖は「待っていた、待っていた」とやさしい温かな言葉を下さり、キクさんを迎えられました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠廻りをして」)

どちらも初めてお屋敷に出向いた人のお話ですが、教祖は可愛い我が子が帰って来るのを以前から待ちわびていたかのようにして、迎え入れられています。

様々な病気や事情を抱え、初めて行く所でどのように迎えられるか不安の中、「待っていたで」との教祖のひと言に、どれほど安堵し、救われた気分になったことでしょう。

親神様が私たち人類の親であるなら、私たちの日常生活は、親神様による壮大な子育ての中にあると言えるのではないでしょうか。そうして日夜温かく見守られる中で、親神様は私たち子供の成人を待ちわび、大きく立派に育つことを願っておられます。

待つということの中には、期待や楽しみも含まれているのでしょう。何せ、子供の成長には時間がかかります。時間をかけてじっくりと、そして楽しみながらその成長を待つ、これこそ真実の親の姿です。

お言葉に、

  たん/\と月日にち/\をもハくわ
  をふくの人をまつばかりやで (「おふでさき」十三 84)

 

  この人をどふゆう事でまつならば
  一れつわがこたすけたいから (「おふでさき」十三 85)

 

親神様がなぜそれほどまでに「待つ」ことができるのか。そこにあるのは、どうでも「一れつわが子たすけたい」という切ないばかりの親心に他ならないのです。

(終)

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