第1278回2024年4月19日配信
東京スカイツリーから、こんにちは ~母と子の絆は永遠です~
私が5歳の時、父が亡くなり、母が教会長となった。多忙な母と離れ、私はいつも寂しく留守番をしていた。
東京スカイツリーから、こんにちは
~母と子の絆は永遠です~
吉永 道子
これまで、こそだて広場「かぁかのおうち」のママと子供の絆をお伝えしてきました。最後となる今日は、私自身と母との絆をお話しします。
母は天理教の教会に嫁ぎ、私と妹が生まれました。しかし私が5才の時、父は病気で亡くなりました。妹はまだ2才でした。私は父の枕元で、「これからは、私が母を守ることになるんだ」と直感し、「絶対に泣かない!」と心に決めました。
あの日から56年が経ち、母と妹との三人家族が、今では35人になりました。妹は5人の子供を授かり孫が5人、私も4人の子供と10人の孫がいます。当時、今日のような有難い日常がやって来るとは、想像もしていませんでした。
母は、会長である夫を亡くし、二人の子供と実家に帰るか、それとも会長を継いで教会に残るかを考えた末、今は苦しくとも、先々の楽しみを見させてもらいたいと、教会に残る決意をしました。56年前のその母の思いから、当時を振り返っていきます。
当時、母は、幼い妹を連れて毎月、大阪の上級教会と奈良県天理市のおぢばに足を運び、参拝をしていました。私は教会に泊まりに来てくださる信者さんや、叔父や叔母たちと留守番です。
小学校に入ってからもその生活は変わらず、母のいない時間が当たり前になっていました。授業参観があっても、絵具や道具箱が必要になっても、母に伝えることさえできません。
間もなく、私は母のいない寂しさからか、昼間、学校ではなく、少し離れたスーパーで過ごすことが多くなりました。家の人には分からないように、下校時間に合わせて帰っていました。
そんな頃、私を心配した祖母が、田舎から様子を見に来てくれるようになりました。祖母の存在は、固まっていた私の心を溶かしてくれた温かい光でした。
祖母は月のうち、一週間か、長ければ十日間ぐらい泊まりに来てくれました。私は嬉しくて嬉しくて、毎晩祖母の布団にもぐり込んでいました。祖母は、必ず私の頭をなでてくれました。たばこの香りが混じった独特の匂いが、とても好きでした。
祖母は、「教会に生まれた時から、道子の役割は決まっているのですよ」と、私に優しく諭してくれました。私が神様の御用をやり切ることで、母や亡き父との絆が強く結ばれていくのだと。祖母のおかげで、私は母の気持ちを少しずつ理解し、必死に育ててくれている母へ感謝の気持ちを持つようになりました。
それでも高校は、それまでの生活から逃れたい一心で、定時制の天理高校二部に進学しました。昼間は教会本部の部署に勤務し、夕方から授業を受けます。初めて厳しい寮生活を体験し、母に何度も「帰りたい」と電話をしました。
けれど四年間、母と離れておぢばで生活したおかげで、かえって母の気持ちに近づくことができたような気がします。卒業後は素直に教会に戻り、就職し、主人と出会い結婚、現在に至ります。
人生の折々に、5才の時に父の枕元で直感した「母を守る」という言葉が私の脳裏によみがえってきます。親の思いは、計り知れないほど広く深いものだと、今つくづく感じています。
かぁかのおうちに「ただいま」と帰ってくるママがいます。そのママが広場を利用し始めて間もない頃、持病で緊急入院することになりました。お子さんは一才になったばかり。実家や嫁ぎ先の両親のお手伝いも期待できない様です。
広場の利用からは時間外になりますが、ご主人が病院のママに付き添っている間、お子さんをお預かりすることにしました。それ以来、ママは「ちょっとお願いなんですが…」と言って、本当の娘のように何かと私を頼ってくれるようになりました。
ある時、ママ自身の子供の頃の話を聞きました。両親が仕事で家に帰って来るのが遅いので、食事はいつもコンビニ弁当。家族で食卓を囲むことはほとんどなかったそうです。その話を聞いて、私は自分の小さい頃の母のいない生活が重なりました。そして、私がこのママに寄り添っていこうと心に決めました。そうすることで、ママが実のお母さんと過ごすことが出来なかった時間を少しでも取り戻せるように…。
誰でも母親と過ごす時間は、かけがえのないもの。お腹の中にいた時と同じように温かく包まれる、幸せそのものの時間です。
「母と子の絆は永遠です」。私はこの言葉を胸に秘めて、母との残り少ない時間を大切に過ごしています。生まれ変わっても、またお母さんの子供でありますように。
「お母さん、ありがとう」
だめの教え
天理教の教えが伝え始められたのは江戸時代末期のことですが、それ以前の長い年月においても、この世界は常に元の神、実の神である親神様の大いなるご守護の中にありました。そしてその間も様々な教えが世に広まり、人々の間に浸透していたのです。
次のようなお言葉があります。
いまゝでもどのよなみちもあるけれど
月日をしへん事わないぞや (十 42)
月日よりたいてへなにもだん/\と
をしゑてきたる事であれども (十 43)
このたびハまたそのゆへのしらん事
なにもしんぢつみなゆてきかす (十 44)
今までにも、人の道を説いたものや、教えと呼ばれるものが色々あるけれども、それらはすべて、月日親神が時に応じて教えてきたものばかりである。しかし、この度は親神が直々世の表に現れて、人間世界の真実について、未だ誰も知らないことを説いて聞かしていく。
ここに、この教えが「だめの教え」と言われる所以が記されています。だめの教えとは、最後の教え、究極の教えという意味です。今までも十のものなら九つまで教えてきたが、この度はいよいよ残るだめの一点である親神の存在を明かし、この世を陽気ぐらし世界へと建て替えていこう。そのような力強いご宣言なのです。
教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。
文久三年、桝井キクさんは、夫の喘息の平癒を願い、方々の詣り所や願い所へ足を運んだのですが、どうしても治りません。そんな時、近所の人から「あんたそんなにあっちこっちと信心が好きやったら、あの庄屋敷の神さんに一遍詣って来なさったら、どうやね」と勧められ、その足でおぢばへ駆け付けました。
キクさんが、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」と申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻わりをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」と仰せになりました。(教祖伝逸話篇10「えらい遠廻わりをして」)
親神様がこの世界のすべての元であり、人類の親である証拠を、実に優しいお言葉で教えてくださったのです。
(終)