第1277回2024年4月12日配信
お空でかくれんぼ
「妹はお空で遊んでるよ」と5歳の女の子が呟く。生まれてくることのなかった命。私も二度、流産の経験がある。
お空でかくれんぼ
奈良県在住 坂口 優子
昨年の夏、ある五歳の可愛い女の子に出会いました。彼女はとっても元気で人懐っこくて、出会ったばかりの私に上手におしゃべりをしてくれます。幼稚園に通っていることや、ピアノを習っていて発表会に向けて一生懸命練習していること、お母さんがお習字の先生をしていることなど、次から次に色んなことを話してくれました。
「私はね、実は英語の先生なの」と言うと、「わあ!そうなの?」と手を叩いて喜んで、突然、テレビ番組で覚えたという英語で堂々と自己紹介を始めました。
そんな可愛い彼女のことをもっと知りたくなって、私も色々と質問をしました。ところが「きょうだいはいるの?」と尋ねた瞬間、彼女は少し困った顔になりました。そして「お母さんのおなかにね、妹がいたんだけど、いまはお空で遊んでるよ」と、小さな声で呟きました。
私には四人の子供がいますが、その子たちとは別に、お空にも二人、子供がいます。一度目の流産は16年前、三人を授かった後の四度目の妊娠。そして二度目は五年前、四人目を授かった後の六度目の妊娠でした。
最初の流産の後、主人が「これから毎月家族全員でおぢばへ参拝して、いつかまたこの子に会えるように神様にお願いさせてもらおう」と言ってくれて、それからはその子の魂に会いにいく気持ちを込めて、家族揃って毎月欠かさず参拝に行きました。そして八年後、四人目の次女が生まれた時には、小さな妹の身体をみんなで代わりばんこに抱きながら、喜び合いました。
その次女が三歳になる頃、私のお腹にまた小さな命が宿りました。天理で寮生活をしていた長男と次男に知らせると、弟が欲しい二人は「次は男の子やな。間違いない!」と言って喜んでくれました。
ところが、直後の妊婦健診で突然、「赤ちゃんの心音が確認できません」と告げられました。二度目の流産です。頭の中が真っ白になり、診察室を出ると涙が止めどなくこぼれ落ちました。
このまま教会へ帰っても普段通りに振る舞う自信がなく、私の足は自然とおぢばへ向かっていました。神殿に上がりおつとめをつとめましたが、その時何を思い、何を祈ったのか、記憶がまったくありません。それほど、心の中は悲しみでいっぱいだったのだと思います。
回廊を歩きながらも涙が止まらず、2、3歩進んでは窓から見える景色に足を止め、考え込んだり、また歩いたりの繰り返し。帰りの遅い私を心配して母が電話をくれた時、はじめて三時間もそこにいたことに気づきました。
「帰らなきゃ…」電話を切り、足取り重く歩き始めると、静かな回廊に外からの賑やかな声が響きました。「なんだろう…」初めて気が紛れた瞬間でした。その時、戸のわずかな隙間から、天理で寮生活をしている長男の姿が目に飛び込んできました。
「みーくーん!!」大声で名前を呼ぶ私に気づいた長男が、「おかあさーん!!」と嬉しそうに近寄って来てくれました。
「もう四時やで。何してるん?」私の心を見透かしたような言葉に、「うん…ちょっとお参拝」と答えると、「ならいいけど。おばあちゃん心配するから早う帰りや!」と、まるで親子が逆になったような言い方で私を諭すのです。
「そうだ、おぢばで勇んで頑張っている長男への報告は今日じゃなくていい」。ニコニコ笑ってお友達の元へ走っていく長男の背中を見送りながら、そう思いました。そして、悲しみで立ち止まりそうな私を励ましてくださる神様の親心を感じ、胸が熱くなったのでした。
あれから五年の歳月が経ちましたが、子供を失った悲しみはまだ癒えていません。テレビで赤ちゃんの映像を見る度にあの時を思い出し、生きていたら今頃はこのぐらい大きくなっているのだなあと、同年代の子に我が子の姿を重ねてしまいます。
天理教では、どんな辛い出来事も、心の持ち方一つで喜びに変えられると聞かせて頂くのに、私は流産という経験に対して、その術を見つけられずにいたのです。
「お母さんのおなかにね、妹がいたんだけど、いまはお空で遊んでるよ」。
この子がどれだけ妹の誕生を楽しみに待ち、それが叶わずにどれだけ悲しい想いをしたか。小さな彼女の背負っているものを思うと、抱きしめてしまいたくなりました。
どんな言葉をかければ彼女の心を救えるのか分からないまま、「私の赤ちゃんもね、お空にいるんだよ」。静かにそう声をかけました。すると、「え?そうなの?」と、困っていた顔が一気に明るくなりました。
「今頃一緒に遊んでるかもしれないね」と言うと、彼女は目を輝かせて、「かくれんぼしてるかな?鬼ごっこもしてるかな?」と、ぴょんぴょん跳ねて喜びました。
彼女に出会えて、誰にも話せなかった悲しみから解放され、心の痛みがスーッと軽くなるのを感じました。一緒にお空で遊ぶ姿を二人で想像しながら、心の中で何度も彼女に「ありがとう」と言いました。
天理教では「人をたすけてわが身たすかる」と教えて頂きます。自分の辛い体験が、同じ辛さを持つ誰かの心のたすかりとなった時、自分の心もこうしてたすけて頂けるのだと、五歳の彼女が教えてくれたのです。
今日もお空のどこかで、お友達と楽しくかくれんぼしているのかなあ…。その姿を想像するだけで、お母さんは安心して今日も一日がんばれます。いつかまた、あなたに出会えるその日まで…。
幸福との出会い
私たちの幸せな生活は、社会的にも心理的にも、実に色々な要素によって成り立っています。たとえ今現在は調子よく進んでいて、将来的に何の不安もないように思われても、それを支えている一つ一つの要素を顧みる時、自分一人の力ではどうしようもない不確かな面がたくさんあることに気づきます。
悩みや苦しみ、不安というものは、生きていく限り、いつまでもつきまとうものでしょうか。そう考えると、人生はとても寂しい、悲しいものに思えてきます。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、
このよふを初た神の事ならば
せかい一れつみなわがこなり (四 62)
とあります。
この世界と人間を創られた親神様こそ、私たちが生かされて生きている、その元であり、真実の親なのです。
さらに教祖は、
せかいぢう神のたあにハみなわがこ
一れつハみなをやとをもゑよ (四 79)
せかいぢういちれつわみなきよたいや
たにんとゆうわさらにないぞや (十三 43)
と仰せられます。
この世界に生み出されてきた私たちは、みな親神様の子供であり、全人類はきょうだいということになるわけです。こうして、全人類が親である親神様を中心とした一つの家族であると悟ることができれば、不安と孤独から解放され、豊かな幸せを味わえるようになるのです。これほど素晴らしいことはありません。
親神様の親心というのはあたかも空気のようなもので、その大いなる恵みに囲まれて暮らしているにもかかわらず、それは目に見えないが故に、なかなか気づくことができません。
人間には誰しも病気や不時災難、人間関係のもつれなど、日常生活の上に様々な難儀不自由な事柄が現れてきます。そうした時に、それを克服したい一心で必死に祈ることがあります。これこそ、私たちが親神様と出会うきっかけなのです。
そうして真実を込めて願ううちに、それまで感じることのなかった親神様の大いなるご守護に気づき、感謝せずにはいられなくなるのです。
(終)