(天理教の時間)
次回の
更新予定

第1406回2026年10月2日配信

9年目のランドセル

yamasaki
山﨑 石根

文:山﨑 石根

第1376回

だけど有難い

信仰すれば、痛みや苦しみが無くなるわけではない。どんな苦難の中も先人たちは「だけど有難い」と通ってきたのだ。

「だけど有難い」

 

最近読んだ雑誌のなかに、面白い話がありました。

高校生のころ、数学が苦手だった。あるとき、数学の教師が側へやって来て、こう言った。「おまえは数学が全然だめだな。だけど心配ない。おまえのその笑顔とサービス精神があれば、きっと生きていける」。それを聞いて「ああ、そうなんだ。数学はだめだけど大丈夫なんだ」と思った。

またあるとき、父親から「おまえは働き者か、怠け者か」と尋ねられた。普段は物を言わない父が、そんなことを聞いてきたので、「怠け者」と答えたらおそらく殴られるだろうと思って、「働き者です」と答えた。すると父は「よし。頭が悪くても、真面目に働けば食べていける」と言った。そう言われて、「頭が悪くても大丈夫なんだ」と思った。

大学に入ったけれど中退した。「これで一流企業には就職できないな」と、なんだか寂しい気持ちになった。それを紛らわすために競馬場へ行った。周りを見たら寂しい人ばかりだった。そこで思った。「良い会社へ就職できなくても、寂しくても大丈夫なんだ」。馬券は外れたけれど、幸せを感じた。

変な話ですが、何か妙に面白いなと私は思いました。それはなぜかと言うと、「数学はできない。だけど大丈夫なんだ」「頭が悪くても大丈夫なんだ」「寂しくても大丈夫なんだ」。これらすべて、「思い直す」ということをしているんですね。人間は思い直すことができるのです。

河原町の初代会長に、次のような逸話があります。鍛冶屋をしているころ、転んでコブができるほど額を打って、こう言った。

「ああ、痛い痛い、有難い」

それを見ていた人が尋ねました。

「あんた、何が有難いねん」

それに対して、初代はこう答えました。

「いや、痛いと感じさせてもらえるのが有難いんや」

信仰していると痛くない、そんなはずはありません。痛いのですが、有難い。これは思い直しているのです。私は、それが値打ちだと思うのです。

痛いとか、つらいとか、悲しいとか、苦しいとか、信仰していたら感じない。そんなはずはないのです。やっぱり痛いときは痛い、つらいときはつらい、悲しいときは悲しいのです。しかし、初代会長をはじめ、お道を信仰した人たちは、「だけど有難い」―こう考えたのだと思うのです。

何があっても「だけど有難い」。この考え方が大事だと思うのです。うれしいことがあれば、誰だってうれしいのです。幸せなことがあれば、誰だって幸せなのです。つらい、苦しい、痛い、だけど有難い。何が有難いのか。そう言ってから、考えたらいいではありませんか。きっと浮かんでくると思います。おそらく、初代会長も「ああ、痛い痛い」と言っているときは痛かったのです。「ああ、痛い痛い、有難い」「何が有難いんや」と聞かれて、たぶん浮かんだことを言っているのだと思います。

それでは、そういうふうに「痛い痛い、有難い」「苦しいけれど有難い」「つらいけれど有難い」と、「思い直し」をしていけばどうなるのか。運命が変わるのです。初代会長がそうであったように、運命が変わる。「そんなこと言っても騙されないぞ」と思う人もいるかもしれませんが、心配ありません。なぜなら、元手は要らないからです。私の話を聞いて、やってみようと思って、やって損をする人はいないのです。

私たちの先輩は「つらいけれど有難い」「苦しいけれど有難い」―そう言って何が有難いのか、そこに神様の思召を求める思案をして、「本当に有難いな」と芯から思えるようになり、お道を通ってますます結構になったという人たちなのです。そんな人たちがいなかったら、この教会もないのです。それが嘘なら、この教会は建たないのです。

人生にはいろんなことがあります。時には、泣くに泣けないこともあるかもしれません。しかし、それは決して罰が当たっているのではないのです。親神様の「どこまでもたすけてやりたい」「陽気ぐらしを味わわせてやりたい」との親心から、お見せいただいているのです。ですから、何が有難いのかを考えてみれば、必ずその親心に突き当たります。先輩方を見習って、私たちもしっかり「だけど有難い」という心の持ち方、歩み方をさせていただきたいと思います。

天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

おすすめのおはなし