第1204回2022年11月12日・13日放送
夫婦のコミュニケーション
カウンセリングの現場で、よく夫婦の悩み相談を受ける。それは私自身の夫婦生活に当てはまることも多く…。
夫婦のコミュニケーション
奈良県在住・臨床心理士 宇田まゆみ
夫婦というのは面白いものです。全くの他人同士が不思議な縁で一緒になり、人生の最も重要な存在となるのですから。
私は尊敬する恩師から、人が人生の中で愛情を与えてもらう存在、それを求めてもよい相手は、親と伴侶だけであると教わりました。
「おぎゃあ」と生を受けてから、「人間」は文字通り一人では生きていけない存在であり、親あるいは養育者の手で育ててもらう必要があります。
子ども時代は、目に見えない愛情をたくさん掛けてもらいながら成長していきます。愛情の表現は、スキンシップの態度や言葉に現れてきます。その時の温かい肌のぬくもりや言葉の掛け方が、将来の子どもの能力開発に大きく影響することが、心理学や脳科学によって解明されています。
日本人は外国人と比べて、愛情を言葉や態度で表現するのが得意ではないとよく言われます。だからといって、愛情が薄いというわけでもない、むしろ不器用な中にも深い愛情が存在することが多いのです。でも、愛情という目に見えないものは、表現されなければ人には伝わりにくいものです。それは親子の間でも、夫婦の間でも同じです。
私自身、結婚してから、夫との物事の感じ方や考え方の違いは、はっきり言葉にして伝えなければ分からないということを痛感しました。当たり前のことですが、実際に生活を共にするようになって、夫婦のコミュニケーションの重要性がより身に沁みて分かるようになりました。
実際、そのような方が多いのではないでしょうか。その中で、会話がうまくかみ合わず、言いたいことが言えなかったり、わかってもらえなかったりすることで悩みが生まれてくるように思います。実際にカウンセリングの現場にいると、夫婦やパートナーとの関係で悩んでいる方のお話を聴くことがとても多いのです。
よく「喧嘩するほど仲がいい」と言われますが、それも一理あると思います。それだけ自分の思いや意見を相手に伝えることができている証拠で、喧嘩はある意味、意見交換であると捉えることもできると思うのです。
逆に「言わなくてもわかるだろう」というのは、熟年夫婦の会話に出てきそうなセリフです。私もかつて「言わなくてもわかる」域に到達するカップルに憧れを抱いたこともありました。以心伝心のような関係になれたらどんなに素敵だろうかと。
かつて抱いていたその理想は、穏やかで物静かな二人、というイメージでしたが、自分が夫婦になってみて感じるのは、「言わなくてもわかる」域に達するカップルは、そもそもコミュニケーションが多いということです。
どうしても言葉でのやりとりを連想しがちですが、コミュニケーションには、言葉を使った「言語コミュニケーション」と、表情や声のトーン、ジェスチャーやスキンシップなどの「非言語コミュニケーション」があります。そして、この言葉を使わない非言語コミュニケーションの方が、人の無意識に影響を与えると言われています。無意識は心全体の90パーセントを占めていますので、言葉以外のコミュニケーションの影響の大きさがわかります。
実際、表情や口調だけでも、元気がないとか、怒っていることなどはすぐに伝わります。逆に親しみの感覚も伝わるので、自分がどんな表現を使っているかを振り返ってみるのは、夫婦やパートナー関係を良くするためのポイントだと思います。
私自身も、自分の夫への態度や言葉にハッとしたことがあります。ある時、自宅でオンラインで開催された研修会を録音していたのですが、終わった後も停止するのを忘れて、一時間ほど普段の会話が録音されていることがあったのです。
それを聴いた時、自分が夫に対して上から目線で話していることや、「それ本当に思ってる?」と言いたくなるような感情の伴わない言葉を発していることに気づいたのです。
言い逃れのできない自分の普段の声を聴いて、私は愕然としました。夫にそれを話すと、「いつもそうやで」とあっさり。さらにショックを受けました。
私はたまたま良い機会を与えられたおかげで、自分の夫への話し方に気づくことができましたが、それを自覚するのは本当に難しいことだと思います。夫はそんな私の言動を、いつも変わらず受け止めてくれていたのだと、申し訳なくもありがたい気持ちになりました。それ以降、自分の発する言葉を意識するように心がけています。
天理教の熱心な信者であった祖父が、よく話していたのを思い出します。「夫婦は仲良くて当たり前。いつも、お前のおかげで、いや、あなたのおかげで、お前ならこそ、いや、あなたならこそ、と言って暮らすことだ」と。
夫婦のコミュニケーションには色々な要素があります。正解はないので、夫婦それぞれの形があって良いと思います。私の恩師が言うように、親に代わって愛情を求めても良い唯一の相手であるなら、仲が良いに越したことはありません。
夫婦関係の中で確かな愛情や信頼を感じ取ることができたら、どれほど幸せなことでしょう。
愛情は目に見えないものです。だからこそ、言葉と態度によって、普段からわかりやすい素直な表現を心掛けたいと思います。
罪と罰
宗教の重要なテーマの一つに、「罪と罰」ということがあります。端的に言えば、悪いことをした者は罰せられる、というのが罪と罰ですが、天理教の教えでは、この点が殊更に強調されることはありません。
よくない心遣いとして戒められる「ほこり」、それが積み重なって目の前の出来事として現れてくる「いんねん」という重要な教えがありますが、強いて言えば、これらが罪の要素を含むものと捉えることができます。
心のほこりは全ての人に存在していますが、これは純粋に精神の内容に関するものです。たとえば、「お酒を飲み過ぎてしまう」という行いを正すためには、その奥にある「お酒が欲しくてたまらない」という心の偏りを修正することが肝心で、これが「心のほこりを払う」という天理教の信仰的実践であり、それによって人は救済へと導かれるのです。
心のほこりについては、教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、
せかいぢうどこのものとハゆハんでな
心のほこりみにさハりつく(五 9)
とあるように、心のほこりは身の障り、すなわち病気となって表れてくると教えられます。
もし自分の身に不都合なことが起きた時に、それを神様から与えられた罰だと受け取れば、心のほこりは罪に相当します。しかし、神様は世界一れつの子どもをたすけたい一心であり、人間に罰を与えようという思いはありません。もし罰であるなら、私たちの信仰は、辛い目に遭わないように神様に祈るという、いわば恐怖心からの信仰ということになります。しかし、そのような祈りが陽気ぐらしに結びつくとは到底考えられません。
「死」は人間に与えられた最大の罰であるという考え方もありますが、天理教では死は「出直し」であり、魂は生き通しであると教えられるので、これもまた罰ではありません。
神様が私たちの人生に最終的な裁きを下すような教えは、ここには存在しません。心のほこりやいんねん、出直しと言われる「死」も、決して罪や罰などではなく、どれもが陽気ぐらしへのステップとなり得るものなのです。
(終)