(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1202回

鏡のごとくに映るなり

神様は、私たちの心の中まで見抜き見通しだ。お供え物についても、品物よりその人の真心をお喜びになる。

鏡のごとくに映るなり

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、

  みなせかいのむねのうち
  かゞみのごとくにうつるなり(六下り目 三ッ)

とあります。

このお歌とともに教えられた手振りでは、「うつるなり」のところで、合わせ鏡を見るような動作をします。合わせ鏡とは、二枚の鏡を向かい合わせにして、後ろ姿などを見えるようにすることを言います。

こうして、普段は見えない部分が合わせ鏡によって映るように、私たちの胸の内、いわゆる心の中も、神様はすべてご覧になっているというお歌です。

ところが、当時の人々の多くは、人間のお姿をされている教祖に、神様が入り込まれているとは心底から信じられず、教祖にお会いしても、まさか常日頃の胸の内がすべて見られているとは、思えなかったようです。

このような逸話が残されています。

ある年の暮れに、一人の信者さんが立派な重箱にきれいな小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい」と持ってきました。側の者がさっそく教祖にお目にかけると、いつになく「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、ご満足の様子はありませんでした。

それから数日して、別の信者さんが、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます」と言って、粗末な風呂敷包みを出しました。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていました。また側の者がお目にかけると、今度は「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常にご満足の様子でした。

これは後で分かったことですが、先の人はかなり裕福な家の人で、正月についたお餅が余ったので、それを持ってきたに過ぎず、後の人は貧しい家の人でしたが、やっとのことで正月のお餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」と、そのつき立てのところを持って来たのです。教祖には、まさに二人の人のこうした胸の内が鏡のごとくに映り、よくお分かりになっていたのでした。

こういう例はたくさんあったようで、その後、多くの信者さんが珍しいお供え物を持ってきた時にも、教祖は、品物よりも、その人の真心をお喜びになるのが常でした。そして、中に驕り高ぶったこうまんの心で持ってきたようなものがあると、それをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と仰せられました。(教祖伝逸話篇 7 「真心の御供」)

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