(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1166回

笑顔とうれし涙があふれた週末

週末に二組の夫婦から結婚披露宴の招待を受けた。私たち夫婦の二十数年の生活を思い返すきっかけとなった。

笑顔とうれし涙があふれた週末

北海道在住  高橋 太志

 

先日、二組の夫婦から、週末に開かれる結婚披露宴の招待を受けました。土曜日には教会の信者である若い女性の披露宴が奈良県天理市で、翌日曜日には甥っ子の披露宴が北海道士別市で開かれます。

どちらの披露宴も是非出席したいと思い、飛行機の便を検索しました。しかし、新型コロナウイルスの影響で通常より減便されており、いくつか乗り継ぎを探しましたが、現実にはかなり難しい状況でした。最終的に、土曜日の信者さんの披露宴には私と長女が、日曜日の甥っ子の披露宴には妻と長男が出席することになりました。

土曜日、天理の地は穏やかな青空が広がる晴天でした。大人たちの正装とは対照的な、子どもたちの色鮮やかな衣装とニコニコした表情に、思わず笑みがこぼれます。

披露宴では、仲人のご挨拶の後、私が祝辞に立たせて頂きました。緊張の中、一つ大きく深呼吸をしてから、幸せなお二人と会場の皆さんに聞きやすいように、なるべくゆっくり、はきはきと次のような祝辞を申し上げました。

「本日はおめでとうございます。夫婦として、はじめはお互いにしてもらったことをたくさん見つけて感謝できると思いますが、時間が経つと、してもらったことより、してくれなかったことの方が目につくようになります。しかし、実際は変わらずたくさんのことをしてくれているのに、それが時間とともに当たり前になり、目に映らなくなってしまうのです。どうか、お互いに感謝の気持ちを忘れないでください。また、長い人生の中で病気や悩み事に出会うこともあるでしょう。そんな時でもお互いにたすけ合い、補い合って解決し、末永く幸せな人生を送ってください」

その後、乾杯、歓談と進み、二人の生い立ちやプロフィールの紹介、友人からのお祝いスピーチなどのビデオ映像が流れました。観ているうちに、私の目からは自然と涙があふれていました。幼い頃から知っている新婦とそのお相手の幸せそうな姿に、心から祝福の感情が生まれたのだと思います。きっと翌日、甥っ子の披露宴に出席した妻も同じ気持ちだったのではないかと想像します。

この日の披露宴では、一緒に出席した長女がSNSを通して、二人の幸せな姿を妻や教会につながる方々に向けて投稿しました。

翌日曜日、始発の飛行機で北海道に戻った私は、自宅で前日の祝福の余韻にひたりながら、今度は妻と長男がSNSを通して発信する、甥っ子の披露宴の様子を見て、遠く離れた場所から祝福しました。新婦の純白のドレス姿がとても素敵でした。

その映像を見ながら、二十数年前の私たち夫婦の結婚披露宴のことを、ふと思い出しました。その時も多くの方々が、私たちの新しい門出を祝福してくださいました。懐かしい顔が思い出されます。

時が過ぎ、当時祝ってくださった方の中には、もう会うことができない悲しいお別れもありました。しかし、お会いすることができなくても、その方々の祝福の言葉や笑顔は、私たち夫婦の心に時として蘇ります。これからも決して忘れることはないでしょう。

私たち一人ひとりは、それぞれ違った個性や価値観を持っています。残念ながら、欠点もあります。私たち夫婦の生活を思い返すと、些細なことから感情が行き違ってしまうこともありました。

しかし、神様が陽気ぐらしに近づくために出会わせてくれたお互いであることに思いを致し、相手を尊重すること。お互いの個性を認め、欠点を補い合い、相手を許すことが大事だと思います。きっと、私の両親も妻の両親も、同じ思いで毎日を過ごしていたのではないかと思うのです。

そして、これは夫婦に限らず、きょうだい、家族、いま生かされている私たち、すべての人々に通じることでしょう。誰もが笑顔で過ごし、感謝の心を持つことで、周りの人の役に立てる存在となります。何気ない日々は、実はかけがえのない毎日なのです。「今が一番幸せだな」と、毎日心から思えるようになりたいものです。

有り難いことに、この週末の二日間で多くの知り合いができ、新しい親戚のご縁が生まれました。夫婦とは何かを思い出させてくれた二組の新しい夫婦の、末永き幸せを願うばかりです。人の喜びを心から祝福できた、笑顔とうれし涙の週末でした。

 


 

しあわせデッサン子供たちの遊びの世界
 「人間いきいき通信」2019年9月号より

諸井 理恵

 

私が園長を務めている幼稚園での出来事。四歳の年中さん二人が、大きな積木をお城のように積み上げていました。その様子を遠巻きに眺めていると、突然「ガシャーン!」。一人の破壊者がやって来たのです。せっかく作ったお城は倒壊。私は思わず「あっ!」と声が出そうになりましたが、二人は「あーあ」と言いながらも、なぜかニヤニヤ。倒れた積木を拾って、また作りかけています。

砂場では数人の年中さんが、砂山にトンネルや道を作っていました。そこに、おもちゃの車を手にした侵入者が現れ、砂山を暴走。トンネルや道は崩壊してしまいました。ところが、作っていた子供たちは気にすることなく、別の遊びを始めています。

幼い園児たちの様子を見ていると、自分が子供だったころを思い出します。

私が住んでいた家の隣には雑木林があり、近所の子供たちの格好の遊び場でした。特に、木の根っこを抜いた跡のすり鉢状のくぼ地などは、基地づくりや、おままごとが最高に楽しめるスポットでした。拾った子猫を、木箱にブランケットを敷いて飼ったこともありましたが、基地はたびたび壊され、しばらくすると子猫も、いつの間にかいなくなっていました。

長らく遊び場だった雑木林は徐々に木がなくなり、私たちは資材置き場だった空き地に遊び場を移して、戦隊ヒーローごっこなどをするようになりました。そして、その資材置き場も立ち入ることができなくなると、自転車で遠征して、あちこちの公園を巡るようになりました。

夕暮れまでさんざん遊び、「今日の続きはまた明日ね」と言って家路に就きます。たとえ遊び場が壊されても、子供たちはまた新しい遊び場を見つけるのでした。

監視人のいる、ルールの多い、箱のような遊び場が増えてきた昨今ですが、遊びの環境を問題視する前に、子供の世界に大人が立ち入り、大人の定規で測りすぎていないかということが気になります。

たとえば、積木を積み上げる子は、創造性のある〝褒められる子〟で、積木を破壊する子は、乱暴で将来が心配される子と見なす大人の定規。砂場で縦横無尽に遊ぶ子に対して、「場の空気が読めない子」なんて思う大人がもしもいたら、子供の世界に介入しすぎている、それこそ〝空気が読めない大人〟なのかもしれません。

また、子供の心を想像し、「積木を壊されて、わが子の心が傷ついた!」なんて思う方も、もしかしたらいるかもしれません。けれども、子供たちの様子を見ていれば分かるように、時には壊すことも遊びであり、初めはちょっとショックはあっても、すぐに切り替えて、壊されることさえ楽しんでいる子もいます。「だって、また積木を重ねて遊べるでしょ」。そんな声が聞こえてきそうです。

立派な積木のお城は、大人に写真に撮ってもらうためのものではなく、子供たちにとっては今を楽しむだけのもの。たとえ壊されても、次の遊びを見つけに行くのです。

小学生くらいになると対立やケンカなど、人間関係の小さな崩壊を経験しながら、自分にとって居心地のいい相手を選んでいきます。遊びは決められた人間関係の枠を越え、集団で遊んだり、男女別で遊んだり、二人で遊んだり、一人きりで遊んだりと、内容によってさまざまに変化します。

三歳くらいから、多様な遊びや、人間関係の変容をたくさん経験したことが、どんな環境でも楽しめる居場所を見つける力になっているのかもしれません。たとえ仲間外れに遭うようなことがあっても、自分の内側に引きこもるのではなく、「一人の時間ができた。次は何をしようかな?」と、外に向かって楽しめるくらいに。

どんななかでも「楽しめ、楽しめ」と、神様もおっしゃっていますよ。

(終)

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