(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1151回

共につながり合い、たすけ合う

究極の目標である「陽気ぐらし」を考えるうえで忘れてならないのは、「他の人々と共に」という視点である。

共につながり合い、たすけ合う

 

天理教の救済において、究極の目標とされているのが「陽気ぐらし」です。『天理教教典』には、次のように記されています。

「陽気ぐらしは、他の人々と共に喜び、共に楽しむところに現れる。皆々心勇めば、どんな理も見え、どんな花もさく。

皆んな勇ましてこそ、真の陽気という。めん/\楽しんで、後々の者苦しますようでは、ほんとの陽気とは言えん。(「おさしづ」M30・12・11

人は、ややもすれば、我が身勝手の心から、共に和して行くことを忘れがちである。ここには、心澄みきる陽気ぐらしはなく、心を曇らす暗い歩みがあるばかりである。

勝手というものは、めん/\にとってはよいものなれど、皆の中にとっては治まる理にならん。(「おさしづ」M33・11・20

一つに心合せるのは、一つの道の理に心を合せることで、この理を忘れる時は、銘々勝手の心に流れてしまう」(天理教教典 第十章「陽気ぐらし」)

 

陽気ぐらしを考えるうえで見落としてはならないのは、「共に」という視点です。楽しみにしても喜びにしても、自分中心の、自分勝手なものであれば、いつしか他人とぶつかって、たちまちにして壊れてしまいます。人間の暮らしは、一人だけで成り立つものでは決してないのです。

他者とのつながりを切って自分を主張するばかりでは、秩序は乱れ、必然的に自分の存在も不安定になります。

教祖・中山みき様「おやさま」の、次のようなお言葉が伝えられています。

「世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで」(教祖伝逸話篇135「皆丸い心で」)

神様の思召を軸として、皆がつながっていく姿こそ、陽気ぐらしの縮図と言えるでしょう。
また、このようなお言葉もあります。

「陽気遊びと言えば、今日もあちらへ遊び行く、何を見に行く。陽気遊びとは、目に見えたる事とはころっと格段が違うで」(「おさしづ」M23・6・20

陽気に暮らすということは、あちこち観光に行って楽しむというようなことではない。そうした目に見える世界のこととは本質的に違うと教えられます。

たしかに、いくら人がうらやむような生活の条件が揃っていても、それが直ちに生きる喜びにはなりません。客観的な「モノ」の世界は、あくまで私たちの心次第で神様が見せてくださるお与えの世界であり、肝心なのは心のあり方です。幸福であるかどうか、喜べるか喜べないかの決め手は、心に求められることになります。

たとえ何か不都合なことが起こってきても、心一つで陽気ぐらしは可能です。身の回りに起きることは、すべて神様からのメッセージであると受け止め、周囲の人々と共に、そして神様と共に陽気ぐらしを味わいたいものです。

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