(ラジオ天理教の時間)
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第1149回2021年10月24日・25日放送

和香ちゃんと和加ちゃん

目黒和加子先生
目黒 和加子

文:目黒 和加子

第1143回

人を思いやる幼き心

幼い頃、弟と一緒に一升瓶を背負って牧場へ牛乳を買いに行った。父と母の役に立ちたいという必死の思いだった。

人を思いやる幼き心

 北海道在住  高橋 太志

 

北海道では、散歩をすると、頬に秋の風を感じます。
私が子供の頃、教会の近所には乳牛を飼育している牧場がいくつもありました。近くの牧場の牛が教会の駐車場まで逃げ出し、牧場の方が大慌てでトラックに載せて連れて帰ったこともありました。しかし、その後はほとんどの牧場が廃業し、現在は一カ所を残すのみとなっています。

先日、弟に「子供の頃、牧場まで歩いて牛乳を買いに行ったこと覚えてる?」と聞くと、「何度か買いに行ったことを覚えてるよ」と、弟の思い出にも残っているようでした。

確か私が小学二年生の時、父から、一年生の弟と一緒に牧場へ牛乳を買いに行くお使いを初めて頼まれました。二人とも背中に空の一升瓶の入った風呂敷を背負い、牧場まで歩いて向かいました。教会から500メートルほどのいちばん近い牧場でしたが、まるで冒険か宝探しをするようなワクワクした気分でした。

牧場に向かう道は歩道もなく、比較的交通量も多いので、なるべく道路の端を縦に並んで歩きました。牧場に着くと、事前に父から連絡があったらしく、すぐに持ってきた一升瓶に牛乳を入れてくれました。

待っている間、牛舎をのぞくと大きな牛が何頭もいて、私たちのことを気にも留めず牧草を食べていました。未だに牧場の前を通ると、その時の草の匂いがよみがえります。

ふたたび一升瓶を背中に背負い、今度は牛乳の重みを感じながら、落として瓶を割らないように、二人でゆっくりゆっくり教会に戻りました。父に頼まれたことを、何とか成功させるぞ!という気持ちで、必死に歩いたことを覚えています。

教会では、父が笑顔で迎えてくれました。持って帰ってきた牛乳を、母がすぐに鍋で温めてくれて、弟と一緒に飲みました。無事にお使いができ、温かい牛乳が心地よい疲れを取ってくれたこと、そして、父と母の役に立てた喜びが、大きく思い出として残っています。

つい最近、ある女性から、少しの間、三歳と一歳半の男の子二人を預かって欲しいと妻に連絡がありました。

その女性は、旦那さんの転勤で北海道へ移り住み、天理教の教会にお参りしたいと訪ねてきてくださったのがご縁で、お付き合いが始まりました。三人目のお子さんを妊娠中、つわりがひどく、病院に連絡をすると「点滴を打ちに来てください」と指示があり、その際、お子さんは病院に連れて来ないようにと言われたそうです。

ちょうど旦那さんが出張中で、ご夫婦の親御さんも本州に住んでおられるので、急なことで預かってもらえるところがなく困っているとのこと。さっそく教会で二人の男の子を預かることになりました。

いつもは兄弟喧嘩になってしまったり、お母さんの姿が見えなくなると不安になり、必死に探したりするそうですが、この時は喧嘩もせず、絵本を見たり、ブロックやシャボン玉、ボールなどを使って楽しそうに遊んでいました。お母さんの具合が悪いことや、お父さんが仕事でうちにいないことも、子どもなりに何となく理解しているようでした。

三時間ほどしてお母さんが迎えに来ました。二人はお母さんのもとへ走り出し、何をして遊んでいたかを我先に身振り手振りで伝えようとしています。少しの間でも、やはり寂しかったのでしょうね。お母さんは、二人が泣かずに楽しく遊んでいたことを聞いて、ホッとした様子でした。そして、預かってもらったお礼を言い、帰り支度を始めた時のことです。

お母さんが一歳半の弟を抱っこし、おもちゃや絵本、おしめなどが入った重たいリュックを持とうとすると、三歳のお兄ちゃんが「ぼくが持つ!」と言ってリュックを背負ったのです。重たいリュックですから、身体はフラフラですが、お母さんに持たせず何とか自分で背負っていこうとします。お母さんの具合が悪いことを知っていて、少しでもお母さんのお手伝いをしなくちゃ、という思いなのでしょう。

妻がすかさず、リュックの上のほうを摘まんで、男の子に見つからないように持ち上げました。男の子は軽くなったリュックを背負い、キラキラした笑顔でお母さんを見上げています。

「えらいなあ、力があるんだねえ」と褒めると、ニコニコして私のほうを見ます。しかし、褒められるのはあくまでオマケであって、お母さんの役に立ちたいという気持ちが強かったのだと思います。たとえ幼くても、人を思いやる心を持っているものなんだなあ、と感心しました。

私が幼い頃、牛乳を買いに行ったお使いも、きっと父と母の役に立てたことが嬉しかったのだろうと思います。しかし、私と違い、この男の子は誰に頼まれたわけでもなく、お母さんのことを思い、自ら考え実行したのです。

神様のお言葉に、

一人(いちにん)救けたら万人(まんにん)救かるという心持ってくれ」(「おさしづ」M37・12・14

とあります。

相手を思いやる心、人の役に立とうという心は、神様が望まれる心遣いです。一人の人に喜んでいただく、たすかっていただく。そこから多くの方々へと、喜びや人をたすける心が広がっていくと信じています。

幼い子どもの行いが、そばにいる私たちの心を豊かにしてくれました。今度は私が、人に親切にしようという思いを強く持ちました。

 


 

満足さして連れて通る

 

小さい子供が何か欲しくて駄々をこねていますが、お母さんは頑として買ってくれません。お母さんは子供をなだめすかし、ほかの物に目を向けさせようとしますが、子供は一向に承知せず、とうとうその場に座り込んでしまいます。

お母さんには打つ手がありません。
「もう知らない。一人でいつまでもそこに座っていなさい。お母さんは先に帰りますよ」。
置いていかれると感じた子供は、必死にお母さんにしがみつきます。
「もう、わがまま言わないのね」。すると、子供はようやくこっくりとうなずきます。

このような場面、皆さんも出合ったことがあると思います。どれほど叱られても、突き放されても、追いすがり、しがみつける親のいることが、子供にとってどれほど幸せなことでしょう。

子供可愛い心が親心、親を信頼し、すがりつく心が子供の心。親心と子供の心は決して切り離して考えることのできないもので、この双方が溶けあい、一つの愛情の形となるのが理想の親子関係ではないでしょうか。

神様と私たち人間の関係も、決してこれと別のものではなく、その関係は親子であると教えられます。親の理があって子がある、子の理があって親があることを悟らなければならないと思うのです。

次のような、神様のお言葉があります。

元というはをやという。をやという理は可愛い理に育てば、どんな所も育つ。親と成りて育つるは可愛いという理を以て育てるよう。「おさしづ」M22・11・29)

親があって子という。子は何人(なんにん)あれど皆可愛もの。「おさしづ」M31・3・30)

親として、子供が可愛いという心さえ持っているならば、どのような中でも育てることができると、神様は私たちを勇気づけてくださいます。

さらに、

大きい心を持って通れば大きい成る、小さい心を持って通れば小そうなる。親が怒って子供はどうして育つ。皆、をやの代りをするのや。満足さして連れて通るが親の役や。(M21・7・7)

ともお諭しくださっています。

「満足さして連れて通る」とは、子供を甘やかし、好き勝手をさせることとは違います。それは長い成長期間を経た上で、「親が自分をここまで立派に育ててくれた」と、子供自身が気づくことです。

小さい時は分からなくても、成長段階において、その親心は徐々にしみわたり、親に対する深い尊敬と感謝の気持ちが芽生えてきます。そして、自らもこのような親になって、子供を育てたいという思いが募ってくる。これが「子供の満足」というものであり、親の果たすべき子育てではないでしょうか。

(終)

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