第1136回2021年7月24日・25日放送
母ごころ
精神科病棟の患者さんの担当に。身の危険を感じながらも必死に観察を続けると、ある一定の行動パターンに気づいた。
母ごころ
助産師 目黒 和加子
「くっ、くっ、苦しい~」
濡れタオルがぐいぐい私の首に食い込みます。床に倒れ、気が遠くなる寸前に壁のナースコールを足の裏で押しました。
ここは精神科病棟のお風呂場。新人ナースの私の首をタオルで絞めあげているのは、藤田久美子さん、55才。時折、精神が錯乱し、思いもよらない行動が見られる患者さんです。
先輩ナースがバタバタとお風呂場に駆けつけてきました。そこにいたのは、鬼の形相で仁王立ちしている全裸の久美子さんと、床に転がっている私。
「この人が殺しに来た。たすけてー!人殺しー! 警察呼んでー!」
絶叫しながら、先輩ナースにすがりついて怯える久美子さん。両脇を抱えられて病室へ戻り、精神安定剤を注射され眠ってしまいました。
先輩からは、「幻聴や幻覚のある患者さんと密室で二人きりになったらあかんって、注意したやん! 落ち着いているように見えても、何かのきっかけで人に危害を加えてしまうんよ。本人はほんまに殺されると思ってんねんで」と叱られました。
震えが止まらない私は、「久美子さんの受け持ちを外してください。怖くて無理です…」
すると先輩は、「精神科看護の基本は、その患者さんの普通じゃない行動の向こうにあるものを見つけることやで。なんでそんな行動をとるんか、その人なりの理由が必ずある。久美子さんの中に、目黒さんと通じ合えるところがきっとあるから。それを見つけるまでは、受け持ちを外さへんよ」
まっすぐに私を見て、厳しい口調で言いました。私は「分かりました」としぶしぶ返事をしたものの、内心、「普通じゃない行動の向こうにあるものってなんや? 精神に異常をきたして、人の首を絞める患者さんと通じ合えるもの? そんなもんがあるんかいな」と、先輩の言葉を疑っていました。
目が覚めた久美子さんは、私の首を絞めたことなどすっかり忘れています。記憶障害もあり、医師やナースの顔も名前も、その都度忘れてしまうのです。
私は受け持ちを外してもらいたい一心で、久美子さんの観察を始めました。すると、一日の行動にパターンがあることに気づいたのです。
午前中は、カーテンと会話。誰と話しているのか、終始けんか口調です。
「仕事もせんと酒ばっかり飲んで、それでも一家の大黒柱か!」
大声で怒鳴り、カーテンと取っ組み合うこともしばしば。昼食に嫌いなおかずが出ると、ナースステーションに持っていき、「毒入れたやろー!」とスタッフに詰め寄り、おかずを廊下に投げ捨てます。
午後は病棟内をウロウロ。すれ違うスタッフに話しかけられても、完全無視。眉間にしわを寄せて眼光鋭く、口はへの字に曲がっています。
そんな久美子さんの行動で一番びっくりしたのは、毛布を食べることです。夕方になると、ベッドの上にある掛け毛布をちぎっては口に入れ、しばらく噛んで水で流し込むのです。
初めてその現場を見た時、「食べ物と違う! 食べたらあかん!」と、思わず久美子さんの手を押さえました。それでも私の手を払いのけ、食べ続けます。
急いでナースステーションに戻り、先輩に報告すると、「久美子さんにとって、毛布を食べることは大切なことやからね。止めたらあかんよ」と言うのです。
「エッ!! 何でですか?」
「その理由が分からんと、久美子さんを理解できへんからね」
先輩が何を言っているのか全く分かりません。
そんな日が数日続き、毛布は段々と小さくなっていくのに、医師もナースも止めようとしないのです。不思議に思いつつ観察を続けて、さらに気づいたことがありました。毛布を食べている時の様子が、いつもの久美子さんと違うのです。穏やかな優しい顔で、鼻歌交じりで毛布を噛む姿は、まるで別人。
ある日の夕方、いつものように毛布をちぎり出した久美子さん。私に向かって、「ちょっとあんた、こんなもん食べてる私のこと、変やと思ってるやろ。おいしいと思って食べてへんねんで。『明子』には好きな毛布があって、いつもその毛布を抱っこして寝てたんや。けど、あんなに好きやった毛布を置いて出て行ってしまった。『こんな人生イヤや!生まれ変わりたい!』って。せめてこの毛布を食べ切ってやらんと、『明子』が生まれ変わられへん…」
そう言い終わると、こちらに背を向け、再び毛布をちぎって口に入れました。くちゃくちゃと噛んで水で流し込むと、消え入るような声でトツトツと歌い始めたのです。
♪~ゆりかごのうたを カナリヤがうたうよ
ねんねこ ねんねこ ねんねこよ~♫
歌い終わると、柔和な優しい表情で再び毛布をちぎり出しました。
その時、久美子さんの丸まった背中から強烈な何かが立ちのぼっていると感じました。その何かとは、「母ごころ」だと気づいた私。
急いでナースステーションに戻り、先輩に「毛布を食べている時、久美子さんはお母さんなんですね。観音様のようなお顔で子守唄を歌っていました。久美子さんの普通じゃない向こうにあるものは、子供を思う母ごころなんだと思います!」
早口で一生懸命報告しました。
うなずきながら聞いていた先輩が、久美子さんについて話してくれました。
「久美子さんはね、ご主人と別れて、キャバレーでホステスをしながら女手一つで娘さんを育てたんよ。けど、精神のバランスを崩してお客さんに暴言を吐いたり、お店で暴れたりして警察のお世話にもなったみたい。娘の明子さんが、18才の時に家を出てからますます行動がおかしくなって、この病院に入院したの。
明子さんは面会に来たこともないし、どこにいるかも分からない。久美子さんは、毛布を食べたら明子さんは生まれ変われると信じている。母として、娘の望みを叶えたい一心なの。実はあの毛布、もう五枚目でね。以前、毛布を取り上げたことがあるんよ。そうしたら、壁に頭を打ちつけたり、腕を噛んだりして自分を傷つけてしまって…。久美子さんからしてみれば、娘のために出来ることを取り上げられたんやもんね。
だから毛布を食べるという行動は、一般の人から見たらメチャメチャでも、スタッフで話し合ってぎりぎりの許容範囲だと判断したのよ。時々お腹をこわして下痢もするけど、今のところ見守っているんです。目黒さんの言うように、久美子さんの中にある母として子供を思う心は、病んでいないと私も思います」
私は、精神科看護とは、精神を病んだ患者さんの異常行動を無くすように努めることだと思っていました。しかし、この経験で大きく変わりました。患者さんをよく観察し、想像力を働かせ、その人の世界観を理解すること。そして、患者さんの持つ能力を見つけ出し、見守り続けることが大切なんだと、久美子さんから教わりました。
再び病室に戻ると、久美子さんはベッドですやすや眠っています。顔を見ると、口元に毛布の毛がくっついています。ひとまわり小さくなった毛布を、そっと掛けてあげました。