(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1087回

いつも良い日

北海道胆振東部地震の影響で、所有地の木々を止むなく伐採。今までの風景が一変し、心に息苦しさを感じた。

いつも良い日

北海道在住  高橋 太志

平成30年9月5日、台風の直撃により教会内の木の太い枝が折れ、教会近くの所有地でも大木が折れるなど被害が出ました。その翌6日には、北海道胆振東部地震が起き、私の住む千歳市でも震度6弱の揺れを観測しました。

震源地近くの厚真町や、安平町、むかわ町、また震源地から離れた札幌市でも大きな被害がありました。私の住む地域は大きな被害はありませんでしたが、地震で地盤がゆるんだせいで、その後、教会の所有地では、強い風が吹くたびに木が次々と倒れていきました。

その場所は、子供の頃からの遊び場であり、教会でこども会やキャンプを開くには最適の場所でした。春は桜の花が咲き、夏はクワガタ探し、秋にはキノコ採集、冬になればリスやキツネ、エゾシカなどの足跡を見ることができる。そんな緑豊かな林の木々が何本も倒れ、悲しく寂しい気持ちになりました。

しかも、林のすぐ側の広大な土地に太陽光発電のパネルが設置されていて、これ以上木が倒れると大きな被害が出る可能性があります。そのため、家族で相談の結果、管理を怠っていたことを反省し、木々や林に住む生き物たちに申し訳なく思いながら、すべての木を伐採することにしました。

周りの風景は一変しました。空は広々とし、すべての風が直接家に当たるような感覚で、窓を揺らす音も大きく感じました。今までこの林に守ってもらっていたのだなと、あらためて思いました。

新しい風景に戸惑いを感じながら、一か月ほど北海道を離れました。戻ってくると、以前と何かが違うように感じます。妻に聞くと、ご近所の方々も、危険性を考えて木を伐採したとのこと。よく見渡せばどのお宅の木々も見当たらず、視界は広がったはずなのに、心は息苦しく感じました。子供の頃から見ていた光景があまりに変化したことに、心がまだ対応できていなかったのです。

私の教会の信者さんにも、環境が変わったことに一生懸命対応しようとしている家族がいます。そのお宅のお子さんは三姉妹で、長女は6歳、次女と三女は3歳の双子です。よく参拝に来てくれるのですが、私のことを「会長ちゃん」、妻のことを「奥ちゃん」と呼んでくれます。
「さん」という言葉が言いづらいのか、親しみを持って「ちゃん」付けしてくれるのかは分かりませんが、私たちにとっては嬉しいものです。

帰り際の挨拶は必ずハイタッチと決まっていて、忘れると慌てて手を上げて戻ってくる光景も、微笑ましく思います。

その家族は仕事の関係で、教会のある千歳市に引っ越してきました。長女は保育所や近所のお友達と別れるのが嫌だと泣いて訴え、その姿を見て下の双子の姉妹も同じように泣いて訴えたのです。

環境が変わり、新しい生活に馴染むのは難しいものです。しかし、今まで当たり前だったことが、実はこんなに素晴らしい特別なことだったんだと気づくきっかけになることもあります。その気づきからは感謝の気持ちが生まれます。早く馴染もうと焦らなくても、その新しい生活でも神様は変わらずご守護をくださっているのです。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、
「不足に思う日はない。皆、吉い日やで。世界では、縁談や棟上げなどには日を選ぶが、皆の心の勇む日が、一番吉い日やで」(教祖伝逸話篇173「皆、吉い日やで」)と教えられました。

明日の不安や過去に心を奪われず、今あることに感謝や喜びの気持ちが生まれれば、その日は間違いなく良い日になるのだと思います。新しい風景を前向きに捉え、心地よい喜びの日々を送れるよう努めたいものです。

三姉妹は、「引っ越しをしたらいいこともあるんだよ。教会がもっと近くなってお参りにもたくさん行けるよ」と説得され、新しく生まれる数多くの良いことに納得しながら、家族仲良く暮らしています。
おばあちゃんやひいおばあちゃん、親戚のおばさんたちも近くに住んでいて行き来もしやすくなり、教会にお参りに来てくれることも増えました。
6歳の長女が、「もうお友達できたんだよ」と、少し自慢げに笑顔で話してくれました。毎日、良い日を送っていることが伝わってきます。

ある晴れた日、きれいに伐採された林に行き、子供の頃のように深呼吸をしてみました。そよ風が吹く中、まぶしい太陽を浴びながら、息を深く吸い込むたびに空を見上げ、そして大地に視線をやりました。
すると、木を切り取った大きな根っこのそばに、新しい若木が育っているのに気づきました。これは植えた木ではなく、木から落ちた種をもとに、自然の力で育った細い小さな木です。この土地はまだ新しい命をつないでいるのだと思うと、嬉しくなりました。

今度こそ手入れを怠らないように、この若い木を育てていきたいと思います。それに加えてりんごや梨、栗やさくらんぼなど、厳しい北海道の冬にも耐えうる果樹を植え、収穫できるようにしたいと家族で話し合っています。

収穫の時には、成長した三姉妹や教会につながる方々をお招きして、自然の恵みで育った果物を存分に味わいたいと思います。その日もきっと、良い日に違いありません。

 


   
神様からの宿題
 心の『癒やし』とは? 
(「人間いきいき通信」2001年1月号より)

「疲れちゃったねぇ、なんか癒やされたいねぇ……」
「うん、私も癒やされたいよ……」
先日乗り合わせた電車の中で聞いた今風女子高生同士の会話。横で聞いていて、「お疲れさまだね……」としみじみ声をかけたくなってしまった。

そう言えば最近、街のあちこちに「癒やし」という言葉が目立つようになった。本屋に入れば「心の癒やし」コーナーなどに、たくさん本が並んでいるし、ほかにも、香りが出るロウソクや入浴剤、旅行のパンフレットや飲食物にも「癒やし」をうたい文句にした商品が数多く出回っている。
ある知人などは、「癒やしといえば温泉!」とばかりに温泉巡りツアーに出かけ、頑張って風呂に入り続けた揚げ句、湯あたりして疲れて帰ってきたという笑えない〝癒やし体験〟をしたそうだ。

とにもかくにも「癒やし」という言葉が流行し、癒やしグッズがそれだけ売れるということは、癒やされたいと思っている人が世の中にたくさんいるということだろう。

たしかにいまの社会は、人が心にゆとりを持って生きにくい状況にあるようだ。
「人間がもっと豊かに、便利に、そして幸せに暮らすため」を合言葉に、生み出される新製品の数々。内容や質を吟味する間もないほど次々にマスコミなどから流れ出す膨大な量の情報に、逆に人間が縛られ、追い立てられ、踊らされている感もある。その揚げ句、疲労し傷ついた心の「癒やし」をさまざまなものに求めているとすれば、まったく皮肉なことだ。

疲れた心を持つ大人が多い社会に、心を疲れさせた子供たちが増えるのは、至極当然のことである。正体不明の慢性的な疲労感は、人の心から生きるエネルギーまで奪い取っていく。自分自身の生きている意味さえ見失い、優しさや癒やしを求めて苛立った行動をとる子もいれば、自分だけの世界に閉じこもっていくしかできない子もいるだろう。

そんな子供たちの心は、お金や品物、機械や法律などでは決して癒やすことはできない。手間暇をかけようとせず、合理的で手っ取り早く解決しようとばかりする大人たちのずるさや怪しさに、子供たちの心は敏感に反応し、警戒するからである。

高価な物を買わなくても、空の青さや新鮮な空気、山々の景色、草花の色、家族や友人の優しい言葉掛けや笑顔など、〝癒やしグッズ〟は私たちの身近に、いつでも限りなく存在している。それらはすべて、神様から人間に与えられた、深く優しい思召なのだが、その思いに気づくか気づかないかは、一人ひとりの心の自由にまかされていることなのである。

(終)

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