(天理教の時間)
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第1275回2024年3月29日配信

年末に続いた子供の風邪

岡先生(掲載)
岡 定紀

文:岡 定紀

第1077回

病気やトラブルに出会っても

「病気やトラブルの中にも喜べることがある」。後年、子供の頃に父から聞いたこの言葉を実感する出来事に会った。

病気やトラブルに出会っても

北海道在住  高橋 太志

私は物事に行き詰まると、歩いて2、3分の近所の林の中に行き、風で走る雲や揺れる木々を感じたり、名前の知らない小さな花を見たり、鳥のさえずりを聞きながら頭の中を整理します。
自然が身近にある北海道の、特に田舎に住んでいて良かったと思える時です。そんなある日、以前の体験を思い出しました。

子供の頃、私の両親は「忙しくても、家族が揃って食事が出来るのはありがたい」とよく話していました。父は母親を、母は父親を早くに亡くしたので、その時の寂しさが心に残っていたようです。家族で食卓を囲みながら、父は神様の教えや人がたすかった時の喜びを、私たち三人のきょうだいに聞かせてくれました。

私は「神様は陽気ぐらしをするのを見て共に楽しみたいと思われ、人間をはじめ全てのものを創られた。私たちは神様から身体をお借りし、神様のご守護によって生かされている」という教えを、父との食事中の会話で知ることができました。
また、「病気やトラブルにあっても、その時には分からないかもしれないけれど、きっと喜べることがあると思うよ」と話してくれたことも覚えています。後年、父の話したことはその通りだなと思った出来事がありました。

毎年、夏休みの期間中に、奈良県天理市では「こどもおぢばがえり」という行事が開かれ、日本各地や海外から多くの子供たちが参加します。
10年ほど前でしょうか。私はこどもおぢばがえりで、「少年ひのきしん隊」の宿舎の寮長をしていました。中学生を対象とする少年ひのきしん隊は、期間中、合宿生活をしながら、冷たいお茶の接待や行事のお手伝いなどを通して天理教の教えを学びます。

ある日、男子の隊員の一人が、夜、入浴に向かう途中で班の仲間とはぐれてしまったことがありました。夜遅い暗闇の中、多くのスタッフが無線で連絡を取り合い、迷子の隊員を探しました。その間、私は現場のことは他のスタッフに任せ、迷子の隊員の無事を願い、神殿でおつとめをしました。
すると、神殿を出た回廊で知り合いの先生に「高橋くん、どうしたんだい?」と声を掛けられました。お願いの理由を話したところ、「病気やトラブルは決してお荷物ではない、ということを、スタッフの皆さんに伝えて欲しい」と話してくださいました。

宿舎に戻ると、間もなく無事、隊員が見つかったと連絡がありました。スタッフのみんなに「病気やトラブルはお荷物ではない。不測の事態が起きても、それを迷惑がらないように」という先生からのメッセージを伝えると、その後、その班の中ではお互いがより協力し合って行動するようになりました。

私にも昔、「病気やトラブルはお荷物ではない」と思えた出来事がありました。
中学三年生の時、受験勉強が本格的になる前に思い出を作ろうと、日曜日にクラスの友達とサイクリングに行きました。その日はとてもいいお天気で、予定していた時間より早く目的地に到着、お弁当を食べた後、友達の「帰りは違う道を走ろう」との意見に賛成し、遠回りをして帰ることにしました。

しかし、途中道に迷い、険しい山道に入り込んでしまいました。引き戻すことも出来ずに、あてもなく山道を走っていると、下りのカーブに差しかかったところで、勢いよくガードレールにぶつかってしまい、左足のヒザの下から大量に出血しました。

当時は携帯電話もなく、たまたま通りかかった車に乗せてもらい、病院へ向かいました。病院に到着し少し安心しましたが、休日の病院にはお医者さんがいません。ところが、私を車に乗せてくれた方が偶然にも外科のお医者さんだったのです。

さっそくその先生に傷を縫ってもらうことになったのですが、運転をしていたおじさんが突然白衣に着替えるというギャップに不安を感じ、足がガタガタ震え出しました。震えを止めたくても自分ではどうすることもできず、足を看護師さんに押さえてもらい、何とか傷口を縫合することができました。

自分の思うようにならない身体に、やはりこれは神様からお借りしている身体なのだと実感しました。その後、心配して友達がお見舞いに来てくれたこともありがたく、私にとっては嫌な思い出になるところが、良き思い出に変わっていきました。
私を病院まで送り、手術をしてくれた外科の先生。足が不自由になったところを親身に世話をしてくれた友達。父の言った「その時には分からないかもしれないけれど、きっと喜べることがある」という言葉通りの出来事でした。

私たちは普段、家族を含め多くの方々と関わりながら生活しています。病気やトラブルに遭うのは辛いことですが、その辛い経験や、その時に感じた自分の弱さは、誰かのためにきっと役立つ時がくるのだと信じます。あの出来事のおかげで今の自分がある、と言える時が必ず来るのです。

いつの間にか北海道は、夏に近いと思えるような心地よい涼しい風が吹く季節になりました。

 


 
胸の掃除

人間の魂とは本来、澄んだ清らかなものです。しかし、心の使い方によってそれを曇らすのであって、神様はその元凶を「ほこり」にたとえてお教えくだされています。

たとえば、澄んだきれいな鏡でも、それに埃が積もればモノを映すことが出来なくなります。埃というのはほんの小さなもので、誰も心に留めずに素通りしやすいのですが、「ちりも積もれば山となる」で、遂には山のようになって簡単には掃除が出来なくなる。ゆえに、日々ほこりを積まないように注意することが大切です。

とは言うものの、ほこりはいくら払ってもすぐに降ってくるもの。部屋の隅っこやタンスの引き出し、ポケットの底にまで…。ましてや、あっちへ迷い、こっちへ迷い、心を常に目まぐるしく動かしている私たちに、ほこりが積もりやすいのは当然のことと言えます。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、ほこりを払うことを「胸の掃除」と教えられました。私たちが普段、住まいや職場の掃除をするように、自分の胸の掃除も日々怠ってはなりません。掃除を怠ると住み心地が悪くなるのと同じで、私たちの心のほこりも、放っておくと日常生活に良くない影響を及ぼしていきます。

教祖をめぐって、こんな逸話が残されています。 明治十六年頃のこと。当時二十代の青年であった高井直吉(たかい・なおきち)さんが、病を患う人に神様のお話を取り次いでいました。すると先方は、「わしはな、未だかつて悪い事をした覚えはないのや」と食ってかかって来ました。

そこでお屋敷へ引き返した直吉さんが、教祖にお伺いすると、教祖は、 
「それはな、どんな新建ちの家でもな、しかも、中に入らんように隙間に目張りしてあってもな、十日も二十日も掃除せなんだら、畳の上に字が書ける程の埃が積もるのやで。鏡にシミあるやろ。大きな埃やったら目につくよってに、掃除するやろ。小さな埃は、目につかんよってに、放って置くやろ。その小さな埃が沁み込んで、鏡にシミが出来るのやで。その話をしておやり」 と仰せられました。

このお話を承った直吉さんが、直ぐに先方の所へ戻って伝えたところ、「よく分かりました。悪い事言って済まなんだ」と先方はすっかり納得し、ほどなく身の患いをすっきりご守護いただいたのです。
(教祖伝逸話篇130「小さな埃は」より)

神様は「病の元は心から」と仰せられ、病気や災難などの原因は、心のほこり、良くない心づかいから起こることをお示しくださいます。日々、自分は悪い心を使っていないかどうかを省みることが、陽気に明るく暮らすための一助となるのです。

(終)

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