第1219回2023年2月25日・26日放送
自分の人生を生きる
ある晩、私一人でバスを二台同時に走らせているという不思議な夢を見た。心理師である主人の夢分析の結果は…。
自分の人生を生きる
奈良県在住・臨床心理士 宇田まゆみ
先日、こんな夢を見ました。夢の中で私はバスを運転しながら、もう一台、ひと回り大きなバスを走らせているのです。
夢なので非現実的な展開で、皆さん想像しにくいかも知れませんが、現実でも自転車に乗りながら、もう一台片手でハンドルを握って、二台の自転車を同時に走らせている人を見たことはないでしょうか? その自転車がバスに置き換わったような夢だったのです。夢の中の私は、自分で操作し切れないほど大きなものを、何とか走らせることに必死になっていました。
夢から目覚めた瞬間、居心地の悪さを感じて、「こんな夢を見た」と主人に話しました。主人は私と同じく心理師で、夢の研究で論文を書いたこともあるので、私は普段から何か気になる夢を見ると、主人に夢分析をしてもらっているのです。
主人は「自分の人生とは別の、何か、バス一台分ぐらいの大きなものを背負っているのではないか」と言います。そう言われれば確かに、と今の自分の状況を振り返りました。すると、本来の自分が持っているもの以上に何かを背負っているという感覚が、すぐにイメージできました。
それは仕事や日常生活で感じる、周囲からの目に見えない期待です。その期待に応えようとすることで大きなプレッシャーを感じ、自分本来の生き方ができていないのではないか。
主人からは、「自分の人生を生きることが大事だという、夢からのメッセージだ」と言われ、そうか、私は自分の人生を十分に生きていなかったのか、と気づいたのです。
人は、一人では生きていくことができません。物理的にも、馬やシカなど他の哺乳類のように、生まれて数時間で立ち上がって歩くことができず、社会的にも一人きりでは言葉を獲得することができません。人の中で育てられて、初めて生きていくことができるのが私たち人間です。
その中で重要な存在になるのが親であり、家族です。家族は否応なく自分に影響を与える存在です。家族というものに決まった形はありません。誰もが自分の家族を一番最初に体験し、その家族が持っている生活習慣や考え方を、無意識のうちに受け入れていきます。
成長して学校へ行き始め、友達と話したり、友達の家に遊びに行くようになって、他の家族にふれることになります。そこで初めて、自分の家族について外から見つめることになるのです。
私自身、天理教の教会で生まれ育ち、小学校に入るまでは他のおうちもみんな天理教だと思っていたので、そうではないことを知った時にとても驚いたことを覚えています。
子どものうちは、親や上のきょうだいの真似をして色々なことを覚えます。親をはじめ周囲の大人から愛情や期待を掛けられ、それに応えようと努力し、褒められたり認められたり、時には叱られたりすることで、自分というものが少しずつ形成されていきます。
その過程で、否応なく身近に接する大人の価値観の影響を受けるのです。いま自分の持っている考えは誰のものかといえば、ほとんどが自分のものではなく、他の誰かから与えられたものだと言えるでしょう。
そうして成長して行くにつれて、自分自身の考えや価値観も強くなっていきます。親や大人たちから受け継いでいるものとは違う面を、自分の中に見つけることもあると思います。そして、ある程度成人した時に、自分というものを確立する。
それ以降は「親からの卒業」が重要なテーマになりますが、成人したからといって、そのテーマが達成されるわけではありません。カウンセリングの現場にいると、親からの卒業をテーマに、若い人だけでなく、大人になってからも相談に来られる方が少なくないのです。
私自身、夢によって自分以外のものを背負って生きていることに気づかされたのですが、同じように生きている人はとても多いと感じています。大人たちの期待に応えようと、その求められる価値観に合わせた生き方をして苦しくなったり、逆に、親の立場からは、自分自身より子どもを優先する人生を生きて、心のバランスを崩してしまったりすることも少なくないのです。
大事なことは、一人ひとりが「自分の人生を生きる」こと。そのために様々な形でたすけてくれるのが、家族という存在ではないでしょうか。
この人生は自分にしか生きることができない、体験することができないものです。人生に正解不正解はなく、どんな体験にも意味があるのだと私は信じています。
この人生において、自分が何を成そうとしているのかを自らの内側に尋ねながら、日々、生きることを楽しみたいと思っています。
目に見えぬ神
人間はいかにして神様の存在を知ることができるか―これは大変重大であり、かつ難しい問題です。
天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」には、
めへにめん神のゆう事なす事わ
なにをするとも一寸にしれまい (三 25)
とあり、目に見えない神様の言う事成す事は、人間には容易に理解できないであろうことを示されています。
では、理性あるいは知恵・学問をもって神様を知ることはできるでしょうか。学問は確かに人間の経験できる範囲をはるかに越えた広い世界を見ることができますが、「おふでさき」には、
いまゝでハがくもんなぞとゆうたとて
みゑてない事さらにしろまい (四 88)
とあり、神様のなさることは、従来の学問では知り得ない未知の領域であることを示されています。
このように、神様の存在やその思いを理解することに関しては、人間は昔も今も変わらず無知の状態にあります。それを、
よろつよのせかい一れつみはらせど
むねのハかりたものハないから (一 1)
とのお歌で明らかにされています。
では、私たちは、いつまでもこうした無知にして不完全な状態に留まっていなければならないのでしょうか。神様の存在に直接触れることは、とても難しいことかもしれません。しかし、教えを学び実践することによって、信仰を深め、神様の思いにより近づくことは可能であり、その大いなるご守護を肌で実感することはできるでしょう。「おふでさき」に、
このもとをくハしくきいた事ならバ
いかなものでもみなこいしなる (一 5)
とあり、教えを詳しく、繰り返し繰り返し味わい尽くせば、どんな者でも皆恋しくてたまらなくなるのだと仰せられます。恋しくなるとは、神様の思いを知れば知るほど嬉しさが募り、一日も離れていられない状態になるということです。
そうして、この世界と人間の根本原理を皆が知るに至れば、どういう結果になるのか。
かみがでてなにかいさいをとくならバ
せかい一れつ心いさむる (一 7)
すなわち、世界中の人間の心が勇んでくる。誰もが生きることに自信と喜びを持ち、陽気ぐらしへ向かって進むことができる。このように約束されているのです。
(終)