(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1193回

夫婦を考える

カウンセリングの現場で、夫婦はお互いの心を映し合っていると感じることがある。それは私自身の体験においても…。

夫婦を考える

奈良県在住・臨床心理士  宇田 まゆみ

 

私は毎朝、目覚めた時に布団の中で、自分に与えられているものを一つひとつ認識することから一日をスタートしています。そうすると、自分がどれほど恵まれて存在しているかを、忘れずにいることができるからです。

今日も布団の中で目を覚まし、「天井がある、布団がある、目が見える、手が動く、足が動く…」と認識していく中で、「今日も夫がいる」と、その存在をあらためて認識する時間を持つことができます。当たり前のように一緒にいる夫を眺めると、夫婦の縁という不思議なめぐり合わせを感じるとともに、今日もここに居てくれているという安心感とありがたさで胸がいっぱいになります。

逆に言うと、夫が居てくれることの安心感とありがたさで胸がいっぱいになるまで、この恵まれた現状をよくよく認識するようにしているとも言えます。もちろん日常にはいろんな日がありますから、ケンカをしてお互いにそっぽを向くような時もあります。でも、それもここに居てくれるからこそ可能になることで、それだけそばにいるのが当たり前になっている証拠です。

夫婦という関係の中で様々な体験をすることの意味は、とても大きいのではないかと感じています。実際にカウンセリングの現場にいると、子どもの問題で来談される家族の中には、夫婦の関係が子どもに良くない影響を与えているケースが少なくありません。時には、夫婦の問題を解決したいと思った子どもが、親をカウンセリングに連れてきたのでは?と感じるケースもあるぐらいです。実際、夫婦関係が改善されると、子どもの問題も自然と治まっていることが多いのです。

それだけ重要な家族の最小単位を成す夫婦ですが、血のつながりがなく、全く背景の異なる二人が一つの家庭を築くというのは、簡単なことではありません。お互いの常識が違いすぎて戸惑ったり、理解できないと悩んだりするのもよくあることです。

それもそのはずで、脳科学の解明によると、男女は同じ人間でありながら、脳の構造が少し異なるということが分かっています。右脳と左脳をつないでいる脳梁という部分が、男性の方が小さく、女性の方が大きいのだそうです。

その影響で、男性はどちらかというと考え方がシンプルで、変化に気づきにくく、客観的で結論や結果を重視する傾向が強いのに対して、女性はちょっとした変化に気付きやすく、主観的でイメージを好む傾向が強いと言われています。

もちろん個人差はありますが、夫婦のよくある話として、妻の髪型が変わっても夫が気付かず、そのことに不満を感じるという、いわゆる〝夫婦あるある〟も、そもそも脳の仕組みが違うということを知っていると、そういうものとして捉えることができます。

それだけ違う要素を持つ夫婦のことを、天理教では、この世界の〝地〟と〝天〟を象ったものと教えられます。別の要素を持つ二つのものですが、それは別々に存在しているのではなく、二つで一つの形になっている、不可分のものと言えます。そのように夫婦関係を見てみると、確かに夫婦はお互いに作用し合っていることが分かります。

カウンセリングで夫婦の相談に応じていると、お互いが映し鏡のようになっていると感じることがよくあります。妻が夫に言いたいと思っていることは、夫が妻に言いたいと思っていることと同じであったり、相手に対して不満に感じる要素を、実は自分自身も内側に持っているというケースがよく見られるのです。

そう思うと、夫婦は相手を受け入れ、認めることを通して、自分自身を認めることを同時に可能にしてくれる仕組みになっているのではないかと思えてきます。

実際に私自身、夫に何か言いたくなる時に、「もしかしたら、これは夫が私に言いたいことでもあるかもしれない」と考えると、妙に納得できることがあります。その視点を持つと、ヒートアップしていた感情が抑えられ、自分を冷静に見つめられるようになり、それが夫の心情を思いやることにもつながります。

また、相手の目につく嫌な部分が、もしかしたら自分にもあるのかもしれないと振り返ると、実はそれが自分の直したいと思っていた嫌な部分と同じであると気付くことがあります。

そうして、自分の内側をありのままに認めることができた時、夫のその部分を嫌だと感じなくなったり、そもそも気になっていた言動を夫がしなくなったりするので、本当に不思議だなと感じるのです。

人が自分をありのままに認めて生きるためには、人同士がたすけ合うことが必要で、そのために夫婦という形が存在しているのではないかと感じています。相手は自分を映し出してくれる鏡のような存在ですから、相手を変えようとしている時は変わらないけれど、自分の内側が変わると、相手も変わるということが起こるのだと思います。

私をたすけるために、そして私が自分の可能性をさらに広げて生きていくために、夫が存在してくれているのだと思うと、なんとありがたいことでしょう。夫婦というものは、本当に奥深いものだなと感じる今日この頃です。

 


 

信仰における成人とは

 

先頃、民法の成人年齢がおよそ140年ぶりに見直され、20歳から18歳に引き下げられました。すでに2016年には、選挙権が18歳で行使できる改正がされていましたが、今回は、保護者の同意なしにローンを組んだり、クレジットカードを作ることが可能になったり、また、重大な犯罪については実名が公表されることになります。反対に、女性が結婚できる年齢がこれまでの16歳から2歳引き上げられ、男女とも18歳となります。

天理教における成人年齢に近いものとしては、15歳までは親の心遣いによって守護され、15歳を過ぎてからはそれぞれの心遣い、つまりは各自の責任においてご守護をくださる、との教えがあります。また、天理において3カ月間教えを学ぶ「修養科」への志願は17歳から、神様のお話を聞かせて頂く「別席」も同じく17歳から受けることができると決められています。

教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」には、成人という言葉が二度使われています。

  にち/\にすむしわかりしむねのうち
  せゑぢんしたいみへてくるぞや(六 15)

とあり、この前のお歌では、

  せかいぢうをふくくらするそのうちわ
  一れつハみなもやのごとくや(六 14)

と記されています。
これは、世界中の人間の胸の内は靄がかかったように混沌としているが、成人するに従って心は澄んで、神様の真理が見えてくるということでしょう。

また、もう一首、

  それよりもむまれたしたハ五分からや
  五分五分としてせへぢんをした(六 48)

とのお歌があります。
五分とは一寸の半分、およそ1.5センチの大きさですが、ここでは神様が人間を創造された元初りの時において、人間の身体が少しずつ成長していったことを述べておられます。同時に、やはり混沌とした中から、だんだんと物事の分別がつき、精神的に成長していくことを教えられているようにも受け取れます。

これらのお歌から、信仰的な成人とは、何歳になったから、というようなある特定の状態ではなく、陽気ぐらしに向かって少しずつ成長を遂げる、その変化していく過程を指していることが分かります。神様が、そのような私たちの成人する姿を待ちわびておられることは、言うまでもありません。

(終)

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