(天理教の時間)
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第1312回2024年12月13日配信

お産のふりかえり

末吉喜恵先生
末吉 喜恵

文:末吉 喜恵

第1198回

今が一番幸せ

「今が一番幸せ」としみじみ話すのは、94歳の祖母。教会の礎を築いてくれた祖母のその言葉は重く響く。

今が一番幸せ

滋賀県在住  池戸 剛

 

「あー、今が一番幸せやわ~」と、しみじみ話すのは、我が家の94歳の祖母です。私は祖母からその言葉を聞くたびに「いい言葉やな~」と思うのです。

私は日頃、何か喜べない気分の時、「いま喜べることってなんやろう?」と、自分の身の回りの喜び探しをします。すると必ず一つか二つは見つかります。そしてそれが呼び水となって、「これもありがたい、あれもありがたい」と、喜びがあふれてきます。

そうすると、些細なことにとらわれていた自分に気付き、たとえば、里子とのやり取りでモヤモヤしていた心も「まあ、自分が負けて通ればいいか」と切り替えることができるのです。

祖母が通ってきた道中をひも解くと、「今が一番幸せ」という言葉が、より重く響いてきます。

祖母は今から60年前、35歳の時に八日市からおよそ40キロ離れたここ大津へ、単身で布教に出てきました。やっとの思いで電気屋さんの一室を借りることができ、そこへ神様をお祀りして布教に歩いたのです。

当時、祖父は天理で御用に励みながら、時間を作っては祖母の布教拠点の大津へ通う日々。私の父をはじめ三人の子どもたちは、八日市にある教会で在住者の皆さんと共に暮らしていました。衣食住の心配もなく、大勢の大人が一緒とは言え、両親のいない教会での生活はとても寂しかったと父は話していました。

祖母が八日市の教会へ帰って子どもたちに会えるのは、月に一度の月次祭の日だけです。帰り際、「今度はいつ帰ってくるの?」と寂しそうに尋ねる子どもたちに、「がんばって仲良くお留守番頼むわな。お母ちゃんも頑張るしな」と、やっとの思いで声を絞り出し、後ろ髪を引かれる思いで布教拠点の大津へ戻っていくのです。そうして家族で寂しい思いを抱えながらも、祖母はさらに布教に励み、現在の私たちの教会の礎を築いてくれたのです。

祖母は94歳となった今も、私たちと共に教会で元気に生活しています。毎朝の神殿掃除では、神殿の床をきれいに拭き上げてくれます。それが終わると廊下のモップ掛けをし、朝づとめをつとめ、朝食をとり、片付けまで一緒にしてくれて、それからいそいそとデイサービスへ出掛けていきます。

夕方に帰ってくると、私たち夫婦が保育園の迎えや、信者さんのお宅へ出掛けて不在の時は、居間で子どもたちを見守ってくれています。夕づとめでは、子どもたちに「さあ、ハッピを着てね、きちんと座りなさいよ」と優しく声を掛けてくれます。

また、年に一度、月次祭で信者さん方が集まる日に、祖母にお話をしてもらいますが、やはり教会の礎を築いたその言葉には重みがあります。そんな祖母の存在は、教会にとって、また私たち家族にとって宝物です。

昨年五月のある日、私が朝起きると、珍しく祖母の姿がありません。部屋へ行くと、熱があるようで、「ちょっとしんどいねんわ~」と言います。かかりつけ医に電話をすると、「コロナが流行っている時やし、念のためにPCR検査を受けてください」とのことでした。

祖母を連れて検査を受けに行くと、「他の検査もしておきましょう」と言われ、その間車で待っていると、一時間ほどして担当医に呼ばれました。

PCR検査の結果は夕方に出ますが、レントゲンをとったところ、肺炎が見つかりました。ご高齢ということもあるので、このまま入院して頂きます」と思いもよらない診断を受けました。

入院病棟に入るまでの20分ほど、祖母と二人きりになりました。病の平癒を願う「おさづけ」を取り次いだあと、「入院したら、コロナ禍の現状では面会もできない。もしものことがあれば、祖母と話しができるのはこれが最後かもしれない」との考えがよぎりました。

「おばあちゃん、教会のこと、まだまだ安心してもらえるような状況じゃないけど、今の教会を見てどう思う?」

「いやいや、あんたたち夫婦も一生懸命つとめてくれてるし、お父さんとお母さんも八日市の教会で頑張ってくれてるし、みんな十分親孝行やわ。おばあちゃんは今が一番幸せ」

病棟へ入っていく後ろ姿を見送りながら、私は祖母の思いが聞けた嬉しさに包まれ、「よし、俺も頑張るから!」と心に誓ったのでした。

夕方になって病院から、PCR検査の結果は陰性だと連絡が入りました。数日後、祖母は肺炎ではなく、高齢者に多いと言われる偽痛風による発熱であることが分かり、大事をとって引き続き入院することになりました。

子どもたちには、「おばあちゃんが一日も早く退院できるように、みんなで神様にお願いしようね」と話しました。祖母のいない寂しさを感じたのでしょう、いつもはおつとめの時に走り回っている子どもたちも、真剣にお願いしてくれるようになりました。

三週間の入院を経て、祖母は退院することができました。その日、子どもたちは学校から帰ってくると、一目散に祖母の部屋へと走っていくのでした。

いつも教会にいる祖母が帰ってきたということは、状況としてはプラスマイナスゼロです。しかし、私の心の中には、祖母と再び生活を共にできる喜びが湧いてきて、「当たり前の毎日って、ホントにありがたいな」と、大きくプラスに感じることができました。

私たちは日々、神様にご守護いただき、家族や人さまのあたたかい心に支えられ、生かされています。祖母のように、「今が一番幸せ」といつでも言えるように、毎日を通らせていただきたいと思います。

 


 

 

理論や理屈という言葉に使われる「理」とは、物事の筋道を指す言葉です。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

  このよふハりいでせめたるせかいなり
  なにかよろづを歌のりでせめ(一 21)

とあります。

この世は理で責める世界である。この理で責めるとは、隙のないように理で詰めていくこと、すなわち理詰めという意味で、つまり、この世界は隅々までが神様の理によって治められているということを表しています。この辺は理が治まっているけれど、あの辺りはちょっと理の及ばないところで、というようなことは決してありません。

神様は理に基いて、この世界の隅々にまでご守護をくださっている。その理とは、神様が、私たち人間をお創りくだされた元初りの思召しに基づいた筋道。すなわち、私たちお互いが澄み切った心でたすけ合う、陽気ぐらしを見て神も共に楽しみたいと思われた、その陽気ぐらしを実現するために定められた筋道です。

しかし、私たちは我さえ良くばの我が身思案や、世間の風潮に流されて、知らず知らずの間に心得違いをしがちです。私たちの心は、いとも簡単に理の筋道から離れてしまうのです。

そんな私たちに、教祖は、こうお諭しくださいました。

「世界の人が皆、真っ直ぐやと思うている事でも、天の定規にあてたら、皆、狂いがありますのやで」(教祖伝逸話篇31「天の定規」)

自分では真っ直ぐに歩んでいるつもりでも、あるいは他の誰かがそれで良いと言っても、何より優先されるのは、天の定規、すなわち理の筋道です。いかなる時も神様の教えを定規として、日々を通ることが何より大切なのです。

理とは、本来温かいものです。厳しくもあり、温かい。なぜなら、そこに、人間に陽気ぐらしをさせてやりたいという神様の親心が込められているからです。私たちは理に沿い、神様の思いにこの身をゆだねることによって、充分なご守護をいただいて、何不自由なく暮らすことができるのです。

(終)

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