第1180回2014年5月28日・29日放送
安心感は足元にある
私はもともと不安感の強い子どもだった。大学で心理学を学び、心の構造について教わった時の衝撃は忘れられない。
安心感は足元にある
奈良県在住 宇田 まゆみ
私は心理学を学んできて、現在はカウンセラーとして人の話を聴くことを仕事にしています。人の心は当然目に見えないもので、「心はコロコロ変わるからココロ」と言われたりもしますが、とても捉えがたいものです。人の心はもちろん、自分自身の心もよく分からない。いや、むしろ自分の心のほうが分からないかもしれません。
私は小さい頃、とても不安の強い子どもでした。なぜか分からないけれど、何か悪いことが起こるのではないかと、恐ろしくなるぐらいの不安が突然襲ってくるのです。
その後、成長につれ、そのような無性に湧いてくる不安は治まっていきましたが、基本的にはいつも不安と隣り合わせで生きてきたようなところがあります。この不安は何だろう?一体どこからやってくるのだろう?と、よく考えていました。
大学で心理学を専攻し、心の構造について教わった時の衝撃は忘れられません。心には人間が考えることのできる意識の領域と、考えて分かるものではない無意識の領域がある。意識の領域は心全体のおよそ一割で、九割が無意識なのだと教わりました。
こんなにいっぱい考えていて、自分の考えだけでもまとまらないぐらいなのに、それが心全体のたった一割だなんて!本当にびっくりしました。
そして、無意識というのは、考えや言葉になる以前の感覚的なものであり、心は常にその無意識の影響を受けているのだとも教わりました。最新の心身医学の解明では、小学校低学年頃までの体験が、無意識のベースになるということも分かってきています。
毎日の暮らしの中で起こる出来事を、どんなふうに体験するのかということにも、無意識の感覚が影響しています。例えば、初めての場所に行く時や、初対面の人と接する時、新しいことを始める時など、不安な気持ちもあれば、一方でワクワク感を胸に抱くこともあるでしょう。皆さんはいかがでしょうか?
私の場合は不安の割合がとても高いのです。不安になろうと思っているわけではないのに、どうしても不安が湧いてくるのですから本当に不思議です。これが無意識ということなのだろうと理解する一方で、不安にならないで過ごせる日は来るのだろうかと、学生時代は本気で悩んだこともありました。
そんな不安と付き合いながら生きる中で、ある時を境に、以前は不安に感じていたことが、不安ではなくなっていることに気がつきました。歳を重ねたこと、いわゆる年の功というやつかと考えましたが、大人になっても不安の強い方は大勢おられます。どうやら、歳を重ねたからというだけではないようです。
私が教えを受けている心身医学の先生が、心身の健康には、絶対的な安心感を持っていることが大切で、それには幼少期の体験が大きいけれど、大人になってからでもその安心感は増やすことができると教えてくださいました。
その方法は至ってシンプルで、毎朝目覚めた時に、布団の中で、自分に与えられているものを一つひとつ認識するという方法です。「布団がある」「屋根がある」「家がある」「目が見える」「身体が動く」「着る服がある」……無数に出てきます。
どれだけ自分が恵まれているのかが、よくわかります。当たり前すぎて見えなくなっていたものが改めて認識され、ああ、私はこんなにもたくさんのものを与えられ、存在を許されているのだと。ただ、ぱっと起きてしまうのではなく、「あ~、今日も仕事か~」と嫌々起き上がるのでもなく、一つひとつ自分に与えられているものを認識していくと、心が穏やかに満たされてくるのが分かります。そんな朝から一日がスタートすると、当然、気分は変わってきます。
そして、この暮らし方は、天理教の信仰の世界ともつながっていると感じたのです。私は信仰のある祖父母や両親から、自分が本当に自由にできるものは、自分の心ひとつだけであることを教えてもらってきました。あとは自分の身体も含めて全てが、神様からお貸しいただいているものであると。
私たちは、自分の力で生きているのではなく、生かされて生きている。その恵みに感謝する生き方を教わってきました。そして、そのための極めて具体的な方法を、心身医学の先生からも教わることになったのです。
信仰の世界が絶対的な安心感を与えてくれることを改めて感じると共に、毎日の心の実践の大切さを痛感しました。安心感は遠い所にあるのではなく、自分のいちばん近く、足元にあるのだと。その足元を見つめた時に、家族がいてくれることの大きさにも改めて気がつきました。
夫婦を中心として、家族みんなが絶対的な安心感に包まれて暮らすことができる。そんな毎日の心の実践を、まず自分から行い、この安心感をもっと膨らませていきたいと感じています。
元一日
昔から「初心忘るべからず」という戒めがありますが、何事においても、初めというものは極めて大切な意味を持ちます。
入学初日、新入社員としての初仕事、結婚式での将来への誓い、などなど。どの場面においても、人は身震いするほどの緊張を覚えるものです。そうした緊張感と、それに伴う充実感を常に忘れることなく持ち続けていれば、以後も不足や不満の起こることはないはずです。
ところが、私たち生身の人間は時間の中に生きています。十日経ち、二十日経ち、一月、二月、一年二年と過ぎてゆくうちに、知らぬ間に初めの感激を忘れ去ってしまいます。喜びは次第に薄れ、反対に愚痴や不足が増えていきます。そういう時に大切なのは、「初心にかえる」、初めの思いに立ち戻ることです。
天理教の教えは、この出発点、「元」が極めて重要な意味を持つことから、「元一日」の教えとも言うことができます。元一日とは、人間の元の親である神様が、人間世界を創られた元一日の時。まさに初めの中の初め、究極的な始まりの時です。その神様の御心に思いを致すことが、信心する者にとっての心の置き所となるのです。
それを端的に表された、次のようなお言葉があります。
月日にわにんけんはじめかけたのわ
よふきゆさんがみたいゆへから(「おふでさき」十四 25)
せかいにハこのしんぢつをしらんから
みなどこまでもいつむはかりで(「おふでさき」十四 26)
人間は元々「陽気ぐらし」をするべくこの世に生を享けているにもかかわらず、その真実を知らぬがゆえに、みな「いづむばかり」、陰気にふさいだ生活をしているというお歌です。こうした人間たちを、陽気ぐらしの本来性に立ち返らせたいがゆえに、神様は私たちに大いなる親心を掛けられ、昼夜を分かたずお見守りくださるのです。
人は誰でも、様々な「初め」の時を経験しています。しかし、どういう初めも、さかのぼれば全ては「陽気ぐらしをさせてやりたい」という「元一日」の神様の思いと結びつくのであり、そこに根差してこそ、真に生きた意味を持つのです。
人間の元は一つしかなく、その元一つ、親一つという究極の真理が、私たち一人ひとりの魂には深く刻みつけられているのです。
(終)