(ラジオ天理教の時間)
次回の
放送予定

第1180回2022年5月28日・29日放送

安心感は足元にある

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1153回

晩秋のひまわり

新型コロナの院内感染で男性が亡くなった。最期を看取れなかった奥さんは「せめて身体ををさすってあげたかった」と。

晩秋のひまわり

北海道在住  高橋 太志

 

この夏、庭に来なくなったエゾリスのために、また来てもらおうと好物のひまわりの種をエサ台に置いておきました。エゾリスの姿は結局見られませんでしたが、風で落ちたいくつかのひまわりの種から芽がふき出て、大きく育っているのを見て、生命の力、自然の力に驚きました。

そしてこの秋、初雪もそろそろという時期に、近所にひまわり畑が表れました。一面鮮やかに咲く黄色い花に、きれいだなと思う反面、この時期に咲くのは季節外れではないのかな?どうして今頃?とも思いました。ひまわりには夏のイメージがあるので、気になって仕方がありませんでした。

ひまわりを見ていると、その明るいイメージそのままの、ある男性のことを思い出します。

その男性は、もともと奥さんが熱心に天理教を信仰しており、奥さんに付き合う形で教会に参拝に来るようになりました。父と同世代の男性は、父から教えについて聞かされるうちに、「人をたすけて我が身たすかる」という教えに感激し、少しずつ信仰を深めていきました。

昨年、その男性から「折り入って話がしたい」と連絡があり、自宅にうかがいました。すると、がんを患っており、もしもの場合は教会で葬儀をして欲しいとのことでした。

私が、「葬儀のことは承知しましたので、安心して治療に専念してください。無理に病気と闘おうとせず、これも神様のなさることであると、大らかに受け入れる気持ちを忘れないでくださいね」と話すと、「あー、安心した」と、笑顔を見せました。

その後、治療を続ける過程で、毎月奥さんから近況を知らせる手紙が届いていたのですが、そんな中、悲しい知らせが入りました。病院での新型コロナウイルスの院内感染によって、突然亡くなったというのです。

自宅にうかがうと、祭壇にお骨が安置されていました。手を合わせ、お悔やみを申し上げると、奥さんが、感染は看護師さんからであったこと、感染の連絡を受けてからわずか三日で亡くなり、最期の対面もできなかったことなどを、涙ながらに話してくださいました。

私は、奥さんに精一杯お話をさせていただきました。

「旦那さんは、どんな事があっても、最期まで優しい気持ちを忘れずにいたと思うんです。ご家族には苦しい最期を見せたくない、元気な時の一家団らんの思い出を大切にして欲しいという思いもあったかもしれません。ましてや病院を恨む気持ちなど、決してなかったでしょう」

すると奥さんは、「そうですよね。確かに家族にも友人にもとても優しい人でした。でもね、苦しんでいたなら声を掛けてあげたかったし、せめて手や背中をさすってあげたかった」と、涙を拭きながら話しました。この辛い結果を何とか受け入れようとする奥さんの姿に、心が痛みました。

葬儀は、生前故人が希望されたように、家族葬という形でつとめましたが、葬儀の始まる前に、多くの方が「最期のお別れをしたい」とお越しになりました。「人をたすけて我が身たすかる」との教えを受け、周りの人のお世話を親身になってされていた人柄を偲んでのことであろうと、胸がいっぱいになりました。

私も祭壇の側に立ち、できるだけ皆さんにお礼を申し上げました。それが亡くなった男性への、せめてもの恩返しになると思ったからです。

天理教では、人の死を「出直し」と言います。それは、神様からの「かりもの」である身体をお返しすることであり、同時に、それぞれの魂に応じて、また新しい身体を借りてこの世に帰ってくる「生まれかわり」のための出発点であると教えられています。

晩秋、近所に表れたひまわり畑は、花が咲いた後、そのまま土壌に入れて耕すことで、その土地の肥料になる「緑肥」というものだと近所の方が教えてくれました。いきいきと咲いているひまわりは、その土地の肥料の役割を担うのだという自信に満ちているようで、まぶしく見えました。

残された家族のこれからの人生には、良きこともあれば、行先に迷ったり、困難と出会い、決断に悩む時もあるでしょう。そんな時にも、きっと故人は、夫として、父親として、祖父として、家族のそれぞれの人生における大事な決断を後押ししてくれる「かけがえのない存在」であり、心の中で生き続けていくものと信じるのです。

亡くなった男性の心遣いや行動は、家族の未来へとつながっています。そして、いつの日か、新しい身体を借りて生まれかわってきた彼と、また会えるであろうことを信じるのです。

 


 

しあわせデッサン家は心安らぐ場所
 「人間いきいき通信」2018年3月号より

諸井 理恵

園庭に日よけ用のテントを張ると、散らばっていた子供たちがわらわらと駆け寄ってきます。屋根と柱や囲いがあれば、それは子供たちにとっては「家」となるようで、そこに何やら家財道具と思われる砂場の道具類を運び込む子や、三輪車を出し入れして、「車庫のつもりかな?」と思われる動きをする子も現れます。

皆さんも子供のころ、一度は段ボールなどで囲いを作って、わくわくウキウキと「おうちごっこ」で遊んだ経験があるのではないでしょうか。

さて、そんな幼いころの家に対するあこがれを、大人になって実現する日が来ます。初めての一人暮らしの住まい選びは楽しいものです。でも、実際は条件との格闘。自分の収入に見合った家賃かどうかが最大の条件となるでしょう。結婚すれば、二人で暮らす新居を考えます。最近は実家に同居するケースが少なくなって、若い夫婦がローンを組んで家を買うことが多いそうです。

以前、私が園長を務める幼稚園に、お子さんを入園させたいと希望していたご夫婦がいました。マイホームのローンを払うために、奥さんもフルタイムで仕事をしていました。ところが、子供の面倒を見てくれていた実家のお母さんが病気になったために、すぐに保育園に預けなければならなくなりました。「この幼稚園にぜひ入れたいという気持ちに変わりはないのですが……」と、残念そうに話してくださいました。

この幼稚園では放課後の預かり保育もあるので、共働きでも通わせられるようになっていますが、保育園のほうが都合が良いお宅もあるのです。

私も二十代のころ、仕事場兼自宅としてマンションを買おうかと考えたことがあります。もし主人と出会わなければ、ローンを組んで買う方向へ進んでいたでしょう。また、すでにローンを組んでいたら、「すみません。私にはローンがあるので、いまの仕事を続けなくてはなりません。ですから、あなたとは結婚できません」ということに、おそらくなっていたでしょう。

ところで、天理教の教会長を務める主人に、「もしいまの職業でなかったらどんな暮らしをしたいか」と聞いたことがあります。すると、「山小屋の番人!」とキッパリ。テントを背負って喜々として山に向かう姿から、きっと子供のころに、段ボールハウスでウキウキと遊んでいたに違いないと想像がつきます。

防音サッシの部屋で安眠したい私と、テントに寝袋で寝られるという主人。山小屋生活では一緒に暮らせないじゃない、という話になりますが、主人は山小屋に住んで、私は山の麓で食堂をやるというのはどうだろうか。たまに下界に降りてくる山小屋の番人に、美味しいご飯を用意して安らかにくつろいでもらうという、そんな関係もまた、いいかもしれません。

「安らぐ」という字は、「うかんむり」に「女」と書きます。きっと、屋根の下に女性がいると心が安らぐのでしょうね。

神様は、互いにたすけ合って陽気に暮らすさまを見て、共に楽しみたいと思われ、この世と人間をお造りくださいました。この神様が用意してくださった世界に暮らす私たちが、段ボールハウスのなかで楽しく遊ぶ子供のような姿だったら、安心して眺めてくださることでしょう。

そんな子供たちの遊びのなかでも、時にはがっかりするような揉めごともありますが、明日になれば新しい遊びを見つけて楽しんでいるものです。

家も人も、神様からお借りしているものと教えられています。そもそも自分のものではないと思うならば、また所有することに縛られさえしなければ、人間はもっと自由でのびのびと暮らせるのではないでしょうか。そして家とは、そこに集う人の心に安らぎがあることが何より大切だと思うのです。

(終)

ラジオ天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近にラジオ天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

おすすめのおはなし