(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1140回

恩師の言葉

大学時代の恩師である堀尾治代先生の著書をひもとき、カウンセラーとしての心得をあらためて胸に刻みたい。

恩師の言葉

奈良県在住  金山 元春

 

私は大学で心理学を教えながら、人の相談に応じるカウンセラーとしても働いてきました。

私が長きにわたって指導を受けていたのが、私の母校である天理大学で教授を務められた堀尾治代(ほりお・はるよ)先生です。堀尾先生は三年前に亡くなられましたが、昨年の三月には『こころを聴く―寄り添うカウンセリング』と題した遺稿集が、天理教道友社から出版されました。本書には、堀尾先生が天理よろづ相談所病院や天理大学などでカウンセラーとして取り組んでこられた心理相談の実際の様子、また長年の経験をもとにした子育てや若者育成のための心得がつづられています。

天理大学に、心理学やカウンセリングを専門に学ぶ「臨床心理専攻」が設置されたのは、今からおよそ30年前のことです。卒業生は、医療、福祉、教育などさまざまな分野で活躍していますが、その礎を築かれたのが堀尾先生で、先生は私たち卒業生にとって「港」のような存在でした。

私も何かあれば、堀尾先生を訪ねて話を聴いてもらっていました。先生の前では、自分の欠点や弱いところまで全部ひっくるめて、ありのままの自分でいられる。また、先生に会うと、ほっとして心にゆとりが生まれ、次の一歩を踏み出せる。本当に大きな存在でした。

堀尾先生は著書『こころを聴く』の中で、カウンセラーの心得として、「人間、自らつかみ取ったものは強く、内から出てきたものは忘れません。反対に、指示され、提示されたものは、よほど心に治まらない限り、その人を変えません。相談を受けると、『言わなくては』『教えなくては』と焦る人が多いのですが、その人が問題点に気づき、立ち上がっていくときに共に考えても決して遅くはないのです」と記しています。

そして大切なのは、「彼らの心に無理に侵入しようとしたり、何かを押しつけたりするのではなく、彼らのつらさ、苦しさを分かりつつ、彼ら自身の持っている〝自己治癒力〟を信じて待つこと。共に歩むこと」であるとして、相手を信じることを強調しています。私を含め、教え子や、先生のもとへ相談に訪れた人々は、先生のそうした姿勢に支えられていたのだと思います。

また、堀尾先生は、子育てについても、「基本は、子供を信じること。みんな自分自身で解決していく力、自己治癒力を持っている」と記しています。そして、「子供に与えようとするのではなく、子供が示しているものを受け取るだけで十分なのです。

たとえば、『しんどいよ』というサインを出していたら、そのしんどさを受けとめてやるのです。『お母さん、甘えさせて』という雰囲気を出しているときは、甘えを受けとめてやる。子供が示しているサインに、敏感に反応してやることです」として、大切なのは「親がどれだけ子供を信じきり、ありのままを受け入れられるか」であると語っています。

先生が言う「ほっとでき、安心できる雰囲気をつくること、本人の希望や選択を尊重し、子供を信頼して見守ること」の大切さは、カウンセリングの場に限らず、家庭の人間関係にも通じるのではないでしょうか。

堀尾先生は、「その人のありのままの気持ちを受け入れ、尊重して、その人自身の伸びる力を信じて、そばで見守る」との心得をまさに体現していました。しかし、それは簡単なことではありません。先生も、時に、この先どうしていけばいいのか、どうなるのだろうかと不安になったり、先が見えずに希望を失いかけたりすることがあったようです。

この点に関して、先生は著書の中で次のように記しています。

「私は心理臨床家にとって大切なことは、心理臨床家自身の人間性や、一人ひとりの内なる信念・世界観・宗教観に支えられた安定感ではないかと、このところ思っています」と述べた上で、最後に「時には自分を見つめ、自分を超えたものに思いを巡らせ、生きることやこの世界について感じる、そういう時間もあっていいのではないでしょうか」と結んでいます。

私は本書を読んで、先生が困難な状況の中でも希望を失わずにいられたのは、先生ご自身が自分を超えた大きなものに支えられていたからなのだと、あらためて感慨を深くしました。

私もいまや次世代を導く立場になりました。しかし、堀尾先生の指導には遠く及びません。先生のように、あらゆる人を受け入れ、相手に安心してもらえるような安定感を身につけるには、まだまだ時間がかかりそうです。

恩師の言葉を胸に刻みながら、この世界に生かされていることに慎みと感謝の心を持ち、これからも信仰に裏打ちされた安定感を育めるように努めたいと、心を新たにしています。

 


 

三つの宝

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、あるとき、信者の飯降伊蔵さんに、

「伊蔵さん、掌(て)を拡げてごらん」と仰せになりました。そして、籾を三粒お持ちになり、「これは朝起き、これは正直、これは働きやで」と、伊蔵さんの手の平に一粒ずつお載せになり、「この三つを、しっかり握って、失わんようにせにゃいかんで」とお話しくださいました。「朝起き、正直、働き」の教えを三つの籾に託し、しっかり守るようにとの仰せです。

この三つの言葉はもともと私たちにとって馴染みのあるもので、日本人の美徳とも言うべきものでしょう。

「朝起き」については、昔から「早起きは三文の徳」と言われている通り、朝早く起きることは健康に良く、仕事や勉強もはかどるので、必ず得をするということです。

「正直」とは、正しくてうそ偽りのないさまを表し、人に対してうそをついたりごまかしたりせず、常に誠実であれということ。

また、「働き」とは、単に仕事をするという意味ではなく、まめに働く人を「働き者」と呼ぶように、勤勉であることや、自分に与えられた持ち場や役割を責任を持って勤める、というニュアンスも含まれているでしょう。「朝起き、正直、働き」の三つを心がけることは、人としての立派な生き方の基本であると言えます。

しかし教祖は、この教えによって、単に道徳的で真面目な生き方を示されただけではありません。教祖はのちに、伊蔵さんの長女である飯降よしゑさんに、

「朝起き、正直、働き。朝、起こされるのと、人を起こすのとでは、大きく徳、不徳に分かれるで。蔭でよく働き、人を褒めるは正直。聞いて行わないのは、その身が嘘になるで。もう少し、もう少しと、働いた上に働くのは、欲ではなく、真実の働きやで」(教祖伝逸話篇111「朝、起こされるのと」)

と、さらに掘り下げてお諭しくだされています。

このお言葉によって、教祖は、私たちが毎日の暮らしの中で、どのようにして徳を積むべきかということを教えてくださいます。徳とは、私たちが神様からご守護をいただく上での、そのお働きの元となるものと言えるでしょうか。

朝起きるとき、「眠たいなあ。もう少し寝ていたいなあ」と感じることは誰にでもあるでしょう。そこを誰よりも早く起きて、人がうっかり寝過ごしてしまわないように、起きるべき時間に声をかけてあげることは、大きな親切であり、徳積みになるというわけです。

正直については、特に蔭での行い、人目につかないところでの行いが肝心であることを仰せられています。誰しも人の視線や自分に対する評価は気になるもので、人の前では頑張ろうとしますが、人目につかないところでは手を抜いてしまうことも…。そんな気持ちを乗り越え、神様はいつでもご覧になっているとの思いで、徳積みを実行することが大切なのです。

また、働きについては、自分の与えられた責任を果たすことに加え、「もう少し、もう少し」と、さらに働きを上乗せする。そのプラスアルファを、神様は真実としてお受け取りくださることをお示しくださいます。

この「朝起き、正直、働き」の三つの教えを籾に託してお諭しくださったことには、大きな意味があるように思います。

籾はお米の種に当たるもので、きちんと蒔いて丹精すれば、一粒の籾はやがて何倍にもなって私たちの元に返ってきます。ところが蒔かずに放っておくと、時間と共に形は崩れ跡形もなく消えてしまいます。この教えも、ただ知っているだけでは宝の持ち腐れ、実行するからこそ宝のような値打ちが生まれてくる、ということではないでしょうか。

(終)

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