(天理教の時間)
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第1278回2024年4月19日配信

東京スカイツリーから、こんにちは ~母と子の絆は永遠です~

吉永先生
吉永 道子

文:吉永 道子

第1096回

慎みの心で

コロナ禍で日常生活が脅かされる中、地球環境が改善されたというニュースも。神様の思惑はどこにあるのだろうか。

慎みの心で

三重県在住  中森 昌昭

神様のお言葉に、

たん/\となに事にてもこのよふわ 
神のからだやしやんしてみよ  (「おふでさき」三号40)

とあります。
この世界のすべてのものは神の身体である、このことから思案してみるようにとの仰せです。

そして、

にんけんハみな/\神のかしものや 
なんとをもふてつこているやら (「おふでさき」三号41)

と続いています。
神が貸している身体を、皆は一体何と思って使っているのか。私たち人間は神様の身体の中、いわば「ふところ」に住まわせていただいていること、そして、それぞれの身体は決して自分のものではないことを教えられています。

また、教祖・中山みき様「おやさま」は、ある時、不要になった紙をコヨリにし、それで網袋をお作りになりました。その網袋を側の人にお与えになり、

「物は大切にしなされや。生かして使いなされや。すべてが、神様からのお与えものやで」 (「教祖伝逸話篇」138 物は大切に)

と仰せられました。

考えてみると、私たちが日常使っている様々なものは、家や車、食器や文房具など、人間の知恵を結集して作り上げたものであっても、その元となる材料や資源は、人間の力ではどうすることもできないものばかりです。

大金を投じて建設した豪邸も、ローンを組んで購入した乗用車も、自分の力で手に入れたものではありますが、神様からのお与えものでもあるのです。滅多に手に入れることのできない品物だから、高価なものだからといった理由で大切にするのではなく、安く手に入れられるものであっても、すべては神様からのお与えであるとの思いで、大切に生かして使いたいものです。

現在、新型コロナウイルスの感染拡大という事態により、私たちの暮らしにも大きな影響が出ていますが、この事情もいわば神様からのお与えものです。人間にとって一見不都合なことであっても、神様が陽気ぐらしへ向けて成人してもらいたいとの切なる思いでお見せくださるのですから、その思いを深く求めることが大切だと思います。

神様の身体であるこの世界は、現在、人間の飽くなき欲望による様々な活動の結果として、かなり厳しい状況にあるのではないでしょうか。

とりわけ「大量生産、大量消費、大量廃棄」を促進する高度経済成長により、地球環境全体に変動を及ぼす状況が生まれ、人類はじめすべての生命の存続に関わる大きな問題となっています。

経済活動は大切ですが、異常気象による北極海の氷山崩落の様子などを見ると、これまでと同じ活動を続けている限りは、状況は何ら改善されないように思います。

私たちはこのたびのウイルスの出現により、様々な変化を体験しました。数多くの工場が生産活動を停止したり、移動制限により車の利用が極端に減ったことで、地球環境が改善されたというニュースも耳にしました。大気汚染が深刻だった地域で、今までに見たことのないような明るい青空が観測されたことや、「水の都」ベネチアでは、観光客の出すゴミが削減され、魚の泳ぐ姿が見られるようになったことなど、環境問題に関してはいい知らせがあちこちから聞かれます。

また、膨大な時間とエネルギーを費やしていた通勤ラッシュから解放され、業種によっては会社に行かなくとも、在宅で充分仕事が出来ることに気づく機会にもなりました。日常のあり方を今一度立ち止まって考え、自然の恵みを味わいながら、人と地球にやさしい世の中に切り替えていく時期が来ているように感じます。

天理教では、神様が望まれる陽気ぐらしを実践する上でのキーワードとして、「感謝、慎み、たすけあい」の三つを挙げています。
取り分け「慎み」と聞くと、言いたいことも言わない、買いたいものも買わない、食べたいものも食べないで我慢するといった、窮屈な息苦しい生活を思い浮かべてしまいます。

しかし、慎みの心でものを大切に使い、人に慎みを持ってやさしく接し、言葉遣いに気をつけるなど、日々慎みの心で通ることこそが、幸せに至る道であるとはっきりとご教示くださっています。

すべては神様からお借りしているものだと自覚し、どんなものも大切にすることを心掛け、歩みたいと思います。そして、こうした一人ひとりの日々の心掛けと行いが積もり重なれば、必ずや世の中を変える大きな力になるものと信じます。

 


 
善い事すれば善い理が回る

人間の善意とは、社会でどの程度通用するのでしょうか。いくら善いことをしても何の得にもならない、どうせ正直者がバカを見るんだから、と人の善意に対して半ばあきらめてしまうような経験のある人も多いことでしょう。確かに、私たちの住む社会には、我も我もと目先の損得を追い求める側面があるのも事実です。

そうした私たち人間の傾向を重々ご承知の神様は、このようなお言葉を残されています。

「善い事すれば善い理が回る、悪しきは悪しきの理が回る。善い事も切りが無けねば、悪しき事も切りが無い」(「おさしづ」M25・1・13)

神様の言われる「ことの善し悪し」とは、「人をたすける心」を軸としたものの考え方や行動を指します。それは道徳的基準を超えたところにある、自分本位の考えを捨て、どこまでも人に尽くしていく心のあり方です。

ところが、「善い事すれば善い理が回る」という天の法則に気付かない私たちは、人のためにと善い行いをしても、誰も褒めてくれる訳でもなし、お金が儲かる訳でもなし、そんなことは無駄ではないかと思ってしまいがちです。ならば、少しぐらい人に迷惑をかけても、自分の利益を追求していく方が得策ではないか。

しかし、「善い事も切りが無けねば、悪しき事も切りが無い」というのが落とし穴で、人間はいったん善悪のバランスが崩れしまうと、悪い方向へ際限なく向かってしまう可能性があるのです。

神様は、

「理は見えねど、皆帳面に付けてあるのも同じ事、月々年々余れば返やす、足らねば貰う。平均勘定はちゃんと付く」(「おさしづ」M25・1・13)

とも仰せられます。つまりは、私たちの善い行いも悪い行いも、すべて神様はご存知で、きっちりと「天の帳面」に記録されているのです。そして、善も悪も、その記録の勘定通りに、私たちの目の前に現実として起こってくるわけです。

周りの人や神様のご守護のおかげで生かされている、と感謝の念が湧いてくる時は、心や身体が自然に善意の方向へと傾くでしょう。
そんな時には「善い事すれば善い理が回る」ということが、自然に理解できるのです。しかし、心の中が不平や不満でいっぱいの時には、たとえ目の前で善い事が起きても、気づかずに見過ごしてしまう場合が多いのです。

善きことを求めるなら、善きことを。それには、人をたすける優しい心づかいを積み重ね、神様にお喜びいただくのが最良の方法なのです。

(終)

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