第1086回2020年8月8日・9日放送
難局を乗り越えて
戦争で家族を亡くした85歳の古老の話を聞き、苦難の中を心倒さず乗り越えた多くの先人の姿に思いを馳せる。
難局を乗り越えて
三重県在住 中森 昌昭
先日、隣町に住む85歳になる古老からお話を聞く機会がありました。奥さんが亡くなられた直後でしたので、お悔やみの言葉を掛けようとしたのですが、思いがけずこんなお話を聞かせてくださいました。
ご主人は昭和10年に東京で生まれ、小学校に入る頃に太平洋戦争が勃発しました。徐々に戦争が激しくなり、宮城県に学童疎開をしていた折、昭和20年3月10日、約10万人もの人々が亡くなった東京大空襲がありました。その時、東京に残っていた両親はじめ幼かった四人の弟や妹たちも皆亡くなってしまい、五人きょうだいの長男であったご主人だけがたすかったのです。
疎開地でその知らせを受けたのですが、10歳の身ではどうすることもできず、呆然とするばかりでしたが、何とか三重県に住んでいた叔父さんのところに身を寄せることができました。そこで中学を卒業するまでお世話になり、卒業後は伊賀上野の魚屋さんで雇ってもらえることになり、単身伊賀の地に。
ところがすでに新たに採用された人がいて、もう必要ないと断られてしまいました。困り果てていたところ、近くにあった親切な菓子問屋さんから声を掛けられ、何とか仕事に就くことができたのです。
実は、亡くなった奥さんは菓子屋の店員をしていて、その店に配達するうちに親しくなり、めでたく結婚となったのです。
ご主人は、「東京で生を享けた私が、紆余曲折あり、伊賀上野までやってきて、何かの手違いで魚屋ではなく菓子問屋に就職したおかげで妻とめぐり合うことができた。不思議なご縁だったなあ。戦争でひとりぼっちになってしまって、お先真っ暗。どうしていいのか分からない時も何度かあったけれど、おかげさまで色々な人に支えていただき、今日まで来ました。本当に有り難かったです」と感慨深げに話してくださいました。
話を聞きながら、この方のように戦争によって両親を失った子供はどれぐらいいたのだろうかと気になり調べてみますと、12万人を超える子供たちが孤児となったとのことです。
政府は昭和20年9月20日に戦災孤児を保護するための対策要綱を発表し、個人家庭への保護委託や養子縁組のあっせん、さらには施設を設けて集団保護を進めるなど、戦災孤児の保護に努めました。しかし、それでも約3万5千人の子供たちは引き取り手もなく、路上での生活を余儀なくされたのです。
以前、こんな話を聞きました。終戦の直前に空襲に遭い、15歳で両親を亡くした女の子が、仕事を探すために幼い弟と妹を連れて東京に出たのですが、一面焼け野原で、仕事はおろか住む家もなく、上野駅の地下道で何日も夜を明かしたというのです。
その方は晩年、当時を振り返り、「地下道は夜になると満杯になり、何とか子供3人横になれるスペースを確保して、寄り添って寝たんです。持っていたわずかなお金で、1日1本さつまいもを買ってきて、他の人に見つからないように3人で分け合って食べました。連日、食べ物のない子供が命を落としていく様子を目の当たりにし、強い罪悪感にさいなまれましたが、自分たちのことで精一杯で、たすけてあげることは出来ませんでした」と語っておられました。
こうした戦後の混乱した状況の中、天理教の管長であった中山正善・二代真柱様は、昭和21年2月17日、ラジオ放送で「節から芽が出る」と題して、終戦直後の難局を乗り越える上での心構えを述べられました。
「悲しいことでも苦しいことでも成って来るのは天の理と悟って、これを喜んで受け、陽気につとめ切るならば、必ず真に喜べる理をお見せ頂けるのであります。これが節から芽を出す心の持ち方であり、私たちの教祖様(きょうそさま)が長い御生涯の間に身を以てお教え下された信条であります。『節から芽が出る』とは樹や竹が節から新芽を出して生長してゆくように、人生における苦難は将来への生長発展のもとであることを、例えて教えられたお言葉であります。教祖様はさらに『新しい芽を出すのも節からであり、折れるのも節からである』とお教えになっています。実に難関苦節をして悲嘆絶望に終始せしめるか、ないしはこれを喜んで受けて生長発展へのもとたらしめるか、それは銘々の胸次第であります。心の持ち方一つによって決まるのであります」
さらにその同じ年、天理教教会本部は、戦災孤児の収容保護育成のために、社会救済事業を進めることを発表し、これを契機に「孤児を育てよう」運動が起こり、一教会一名の養育を目標に活発な救済事業が展開されました。
こうして各地の教会や信者の手によって、児童養護施設が設立されたり、里親の推進にも力を入れるようになり、現在に至っています。
私の住む三重県内の天理教関係者も、この教会本部の打ち出しを受け、戦災孤児や引き揚げ児童を教会で養育したり、児童収容施設『三重互助園』を設立するなどしました。現在も各教会や互助園では、事情があって家庭を離れざるを得ない子供たちの養護や育成につとめています。
この度の新型コロナウイルスの感染拡大は、第二次世界大戦以来の最大の試練だと言われています。こうした状況に臨んで、愚痴を言ったりどこかへ責任を転嫁したりしても、決して事態は良くなりません。終戦直後の苦難の中、心倒さず乗り越えた先人の姿を思い起こし、節から新しい芽を出せるよう努めたいものです。
時間をかけて新しい生活様式を工夫しながら、たすけ合って歩む姿勢が大切だと思います。お互い励まし合いながら、この苦難を乗り越えましょう。