(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1090回

子は親を映す鏡

子供は親の真似して欲しくない姿まで、どんどん吸収してしまう。子供を鏡として、自らを省みる習慣を身につけたい。

子は親を映す鏡

奈良県在住  金山 元春

 

先日、娘と一緒にテレビでアニメ映画を見ました。私の世代が子供の頃に見ていたアニメの主人公と、娘の世代が見ている主人公が共演するという特別な企画で、親子で楽しませてもらいました。

その際、私は懐かしさとうれしさもあって、娘にそのアニメのうんちくを語ってしまいました。
後日、娘が妻に対してそのうんちくを、さも自分が考えたことであるかのように語っているのを聞いて、「ああ、子供というのは、こうして親の考え方や価値観を取り込んでいくんだなあ」と、妙に納得しました。

思えば、誰かの言動から、さまざまな考え方や価値観を取り入れることは、親子の間だけでなく、大人と大人の関係でもよくあることです。

たとえば、私はある講演会で、天理教の教会長さんのお話を聞いて感銘を受けたことがあります。
その日は雨でしたが、たくさんの人が集まっておられました。
このような時、たいていの講師は「今日はあいにくの雨にもかかわらず、たくさんの方にお集まりいただき……」などと挨拶しながら講演を始めると思います。
これは聴衆に対するねぎらいの気持ちから出る言葉であり、それが間違っているわけではありません。ただ、その日の講師の言葉は、そうした常識的なあいさつとは異なりました。

冒頭、「本日は結構なお湿りのご守護をいただき……」との挨拶で講演を始められたのです。私も天理教の信仰者ですが、この言葉には本当に感心しました。
それは、すべての事柄を神様からの賜りものであると受け止め、たとえ雨の日であってもそれを喜び、その与えに深く感謝されている教会長さんの姿勢が、何気ない挨拶から伝わってきたからです。

天理教では、神様と人間の関係は親子であると教えられます。親なる神様という意味から、天理教信仰者は親しみを込めて「親神様」と呼んでいます。親神様は、この世と人間を創られた「元の神様」であり、今もなお万物を守護されている「実の神様」です。雨、すなわち水は私たちにとって欠かせないものであり、雨のお与えも親神様のご守護に他ならないのです。

それにもかかわらず、私はというと、雨の日には「あ~あ」とうらめしそうに空を眺めながら、「せっかくの休日なのに……」などと、自分勝手な都合でため息をついてしまったり。そんな我が身を省みました。
とりわけ、そうした姿を子供にも見せてきたのではないかと、子供を育てる親として反省しました。

私は親として、我が子には晴れの日でも曇りの日でも、そして雨の日でも、その中に喜びと感謝を見出せる人になってほしいと願っています。しかし、私自身がそうした姿勢で暮らしているかと問われれば、甚だ心許ないというのが正直なところです。

「親としてこれは子供に伝えておきたい」「しっかりと心に治めてもらいたい」と思うことを語り聞かせることも大切でしょうが、それよりも子供は、普段の生活の中での何気ない親の物言いや振る舞いからたくさんのことを学び、吸収しているのだと思います。

ところが子供は、親にとって真似してほしいことだけではなく、真似してほしくないことでもどんどん吸収します。皆さんは、自分とそっくりに振る舞うお子さんを見て苦笑いすることはありませんか? 
「子は親を映す鏡」とはよく言ったものです。

私たちは、子供の物言いや振る舞いに対してあれやこれやと言いますが、子供の気になる姿を見た時は、果たして自分はどうなのかと、子供を鏡として自らを省みる習慣を身につけたいものです。

子供に求める前に、まずは親である私からという姿勢で、毎日を喜び勇んで通りたいと、心を新たにしています。

 


 
神様からの宿題

 『フツー』ってなに?
    (「人間いきいき通信」2001年7月号より)

「普通にもいろいろな普通があるものだ」と思う。
犬も食わないと昔からいわれる夫婦げんかの仲裁に入ったときのこと。結婚三年目のその夫婦は、交際の始めから新婚時代まで、仲の良いことで有名だったそうだ。ところが……。

「先生、聞いてくださいよ。この人フツーじゃないんです」
「いーや、おまえのほうがおかしい。絶対フツーじゃない」

このやりとりから始まって、お互いの言い分は、いくら話しても噛み合わない。たまりかねて「じゃあ、相手のどんなところが普通じゃないんですか?」と尋ねてみたら、

「この人、どんな料理にもマヨネーズをつけるし、お醤油とかソースだって、フツーじゃないくらい、いっぱいかけるんですよ!」
「おまえだって、歯磨き粉のチューブを下からきれいに押して出さないじゃないか! 次に使う者が迷惑だろ! 常識がないんだから」

と、聞いているこちらまで「そんなことでフツー、ここまでケンカしないでしょ!」と「フツー」がうつってしまった。

どうも「フツー」という言葉は、自分に都合よく使われることが多いようだ。考えてみれば、夫婦といってもまったく違う環境に育った者同士、生活習慣や物事の考え方が違って当たり前である。
「たとえ親子、夫婦、兄弟であっても、一人ひとり心は違う」という基本を忘れてはいけないのだ。

自分と違うところに惹かれ合ったはずの二人が、お互いの違いばかりに目を向けて喜べなくなったり、相手を自分に合わせようとやっきになったりするとき、さまざまなもめ事が起こってくる。

「フツー」という言葉を使うときには、その前提として他者との比較が行われているはずだ。「誰々に比べて」「どこどこの家に比べて」というふうにである。

しかし、他人との比較のなかで自分の価値を決めようとすると、目先の小さな競争や評価が気になり、かえって心のゆとりをなくし、自分自身の心をふらつかせ迷わせやすい。「フツー」を目指すことは、何かを増やしていくことよりも、自分自身の大切な何かをなくしていくことのほうが多いのだ。

かつて面接した不登校児のAくんは、人一倍優しく、相手の気持ちになって物事を深く考え、素直な言葉で自分を表現できる、人間的にとても魅力のある子だった。

しかし、彼のお母さんの望みは、「先生、私は多くは望んでないんです。あの子が普通の子らと同じように、普通に学校に行って、普通に勉強して、普通に進学して、普通の大人になってくれればいいんです」というものだった。

私はお母さんに問い直した。
「お母さん、親としての気持ちは十分に分かりますけど、それはいまのAくんの長所や特徴を全部削ぎ取って、何もない子になってほしいということですよ。それがAくんの幸せにつながるのですか?」

たとえ不登校の子が学校へ行くようになったとしても、その子が人間的に貧しくなってしまっては、なんにもならないと思う。
よく人は「フツーの子」と言うが、文字通りの「フツーの子」に出会ったことは、私はいままでに一度もない。みんな一人ひとりが特別な子なのである。

「フツー」という言葉に心を奪われて、他人と比べることで自分自身の心の特性を引いたり削ったりするのではなく、自分と他人との心の違いを楽しみ、足りないところを補い合い、足し合い、掛け合ったりしながら、人として豊かに生きる道を探っていきたいものである。

(終)

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