(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1245回

今が満点

幼くして親戚の家に預けられ、その後教会へ婿養子に入った父。当初はその義理の親に心を許すことができずにいた。

胸の奥にこの花あるかぎり

「おにぎりの力」

 

脳梗塞を患って自宅療養していた義理の母が、風邪で体調を崩したときの話である。

もともと喘息持ちなので、インフルエンザの予防接種も早々に済まして用心していたのに、デイサービスから帰ってきた様子がいつもと違っていた。息が荒く、足の進みがゆっくりで、玄関の踏み板を上がるのもひと苦労の様子だった。熱もあったので、かかりつけの医師に連絡し、前もってもらっておいた風邪薬を飲ませて、ベッドで休んでもらった。

これまでは、体調のすぐれないときでも、家のベッドで食事をすることはなかった義母だが、今回は起きられなかった。少しでも体に力をつけてほしいと思うが、お粥が嫌いで食べたことがない。大好きなうどんを作ってみたが、箸が出ない。リンゴを小さく切ったり、むいたミカンを用意したりしても、ほんの少ししか口にしない。箸やスプーンを使うこと自体が、つらそうに見えた。

そこで思いついたのが「おにぎり」である。この思いつきの元は、ある看護学生が実習で見せてくれた、素晴らしい実践の記憶である。

私が病棟の看護師長をしていたころのこと。心臓の手術を終えた高齢の女性の看護を、その看護学生が受け持つことになった。手術は成功したが、患者さんの食欲はすっかり失せてしまった。

食事が取れないと、手術後の傷を治すための栄養が不足し、貧血も悪化して回復に大きく影響する。やむなく点滴で栄養を補った。しかし、心臓の悪い人にとって、水分は心臓の負担になるので、点滴も多くは入れられない。なんとか口から栄養を取ってもらいたいのだが、減塩食なので余計に食が進まない様子だった。

その看護学生は、患者さんがおかきを好きだと聞き出した。残念ながら、おかきは塩分が多いので食べてもらえない。知恵を絞り、減塩食を利用して焼きおにぎりを作ることにした。小さいおにぎりを作って、お膳に付いてくる減塩醤油を表面に丁寧に塗り、オーブントースターで焼いた。

それを患者さんにお持ちしたところ、醤油の焦げた香ばしい匂いに誘われてか、「食べてみる」と言われた。そして、おにぎりを二つも食べることができたのだ。患者さんはその後、食欲が出てきて、見る見る回復された。

後日、その方が私にこう話してくださった。

「師長さん、あの学生さんが作ってくれた焼きおにぎりを食べて、私は食にありつくことができました。おにぎりで力がついて、それからほかの物も食べられるようになったんです。あの学生さんは命の恩人です!」

私も義母におにぎりを作ってみることにした。小さめに握って好物のノリを巻き、お絞りを添えて、手でつまめるようにした。ベッドに運んでいくと、義母は「美味しそうやな。これなら食べやすいわぁ」と嬉しそうな顔で、ゆっくりではあるが、三つ全部食べてくれた。これで弾みがついて、少しずつおかずにも手が出るようになり、元気になっていった。

私が四十年もフルタイムで看護師として勤務を続けてこられたのは、義母が二人のわんぱく息子の守りをしながら、家事をこなしてくれたからである。

「あんたがいてくれて良かったわぁ。ありがとう」

義母の言葉に、思わず涙ぐんでしまった。ほんのちょっぴりではあるが、恩返しができただろうか。

幸せな気持ちを運んでくれた、「おにぎり」バンザイ。

 


 

今が満点

大阪府在住  山本 達則

 

私の父は、幼くして両親を亡くし、二歳の時に母親の妹の家に養子に出されることになりました。そこで大切に育てられ、高校まで通うことができ、卒業と同時に働き出しました。その後、ある方からの紹介で、婿養子として私の母と結婚することになったのです。

私の母は天理教の教会の一人娘で、早くに両親を亡くし、叔母さんに引き取られました。その叔母さんが、私にとって唯一の祖母になるわけです。

祖母は戦中戦後の大変な時期、女性としての喜びである結婚を諦め、姪っ子を育てながら教会を守るという道を貫いた、たくましい女性でした。そこへ養子に入った父は、祖母に対してなかなか心を許すことができず、自身の人生について深く考えさせられることになります。

生みの親、育ての親、そして婿養子先の親と、人よりも多くの親を与えられた上に、婿養子先の親と心を通わせることができない。その境遇に父は大いに悩みました。そんな思いを持ちつつも、母との間に私を含め三人の子どもを授かりました。そして、それぞれが成長して成人を迎えた頃、祖母が白血病を発症しました。

当時は、白血病と言えば生存率の極めて低い病気で、しかも病状はかなり進んでいたので、祖母は積極的な治療はせず、教会で残された時間を過ごすことを選択しました。

父はその時、人よりも多くの親を与えられた自分は、人の何倍も親孝行をするべき運命なのではないか。いま、余命宣告をされたこの母親に孝行を尽くすことが、神様から与えて頂いた人生の課題ではないかと考えたのです。

父はその日から、何をおいても親のことを最優先すると心に決め、身の周りの世話をはじめ、買い物や外出時の送り迎えに至るまで、思いつく限りのことを実行していきました。そのうちに祖母は、悩みや愚痴、病気の辛さなど、胸の内を父に話すようになりました。

それから一年半ほど経ち、祖母の病状も進んでいたある日のこと。トイレから父を呼ぶ声がしました。父が慌ててトイレへ行き、恐る恐るドアを開けると、便器には真っ赤な汚物がそのまま置かれていました。

「こんなもんが出てきたんやけど…」と不安げに尋ねられた父は、すぐに病院に連絡を取り、急ぎ祖母を車に乗せ病院へ向かいました。

その車の中で、父は祖母の病状を心配しながらも、何とも言えない喜びが湧いてきたのです。いつも凛として、父には全く弱みを見せたことのない祖母が、トイレにまで自分を呼んで、耐えられない不安を見せてくれたことが嬉しくて仕方がなかったのです。「少しだけ親孝行ができた」。父がそう実感した瞬間でした。

それから二か月後に、祖母は亡くなりました。その二か月の間で二人は本当の親子になったのではないかと、今しみじみ感じています。「この喜びのために、神様は私に多くの親を与えてくださった」。父は私にそう話してくれました。

私たちはどの親の元に生まれてくるのか、どのような境遇で、どんな才能を持ってこの世に生まれてくるのか、全く選択する余地がありません。いくら悔んだり悩んだりしたところで、それらを覆すことはできないのです。

しかし、その変えられない現実をどのように見ていくかは、それぞれの自由です。恵まれない境遇を恨んだり、自分の能力を人と比べ、妬んだり羨んだりしながら生きていくのも自由です。一方で、自分の現実をありのままに受け入れ、その中に喜びを見つけて生きていくこともできます。

天理教が目指す生き方は「陽気ぐらし」です。この陽気ぐらしを実現させるために一番大切なのが、「今が満点」という心の持ち方ではないでしょうか。

今が満点だと思えば、そこには感謝しか生まれてきません。家族も、友人も、ご近所も、自分の容姿や才能も、あらゆるものすべてが「満点」。その感謝の心が、次の新たな感謝を生み出す種になるのだと思います。

もちろん、これは言葉で言うほど簡単なことではないと実感しています。しかし、亡き父の顔を思い浮かべ、「あるがままを喜ぶ」というその生き方に思いを馳せる時、それが陽気ぐらしへの一番の近道であることを実感するのです。

(終)

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