(天理教の時間)
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第1288回2024年6月28日配信

世界で咲く花

家族円満 旭和世
旭 和世

文:旭 和世

第1229回

親神様に喜んで頂く

私にとって4人の我が子は「目の中に入れても痛くない」存在。親神様の人間に対する思いも、それと同じである。

いんねんというは心の道

 

人間の心には、多かれ少なかれ「傾向性」、ある方向への傾きのようなものがあります。その大部分は無意識のうちに働いているために、知らず知らずのうちに偏った心遣いをしてしまうのです。

たとえば欲の深い人は、常に頭の中でお金の計算をしてしまう。お酒が好きな人は、何かにつけてすぐ飲みたくなる。常に異性の姿を追いかけてしまうというのも、心の傾向性によります。

また、「無くて七癖」と言われるように、人は誰しも癖性分を持っています。一般に他人の癖はよく見えますが、自分自身のそれには気付かないことが多い。たとえ気づいても、なかなか直しにくいのが癖性分というものです。

天理教の教えでは、こういう心の傾向性、また、それによって起こってくる事柄を、広く「いんねん」という言葉で表しています。

お言葉に、

「いんねんというは心の道」(「おさしづ」M40・4・8)

とあります。

「道」というからには、向かって行く方向というものがあります。それが天の理の筋道から外れている時、その「心の道」は、人間本来の生き方を歪める、悪いいんねんとして働くようになってしまいます。

人間の心は通常、「我」の心、我が身思案のほこりの心に支配されやすいものです。長年にわたる心のほこりが、いわゆる「悪いんねん」として積み重なると、それは見えない所からその人の言動を左右する力となって表れてきます。そうなると、自分の意志に反するような、思いがけない事柄が何かにつけて生じてきます。

では、人間にとって「いんねん」とは、すべて悪いものなのでしょうか。他の宗教や道徳の多くはそう説いています。しかし、この教えにおいては、さまざまな個々のいんねんの根底にある、人類共通の「元のいんねん」を明かしています。

「元のいんねん」とは、この世界に生きる私たち人間は皆、親なる神様によって造られた「神の子」である。ゆえに、お互いは「きょうだい」の関係にあり、他人などというものは一人もいない。

その人間が、互いに立て合いたすけ合って暮らす「陽気ぐらし」の世界を見て共に楽しみたい、との思いから、親神様はこの世界と人間をお創りくだされた。すなわち、人間はもともと、陽気ぐらしができる資質を本来性として与えられ、この世に生まれてきたのである。

これが、人間一人ひとりの奥底にある「元のいんねん」というものであり、それが自覚できてはじめて、陽気ぐらしへ向かう足取りが定まってくるのです。

 


 

親神様に喜んで頂く

大阪府在住  山本 達則

 

天理教では、神様と人間の関係は、親と子の関係と同じであると教えられています。よく、親が子どもの大切さを表現する時に「目の中に入れても痛くない」と言うことがあります。それぐらい、親にとって子どもはかけがえのない存在だということです。私も四人の子どもを与えて頂きましたが、やはり「目の中に入れても痛くない」と表現したいぐらい、子どもは愛おしい存在です。

一方で、私は親として、その時々の子どもの言動に対して、判断を修正したり、間違いを正してやったりを繰り返してきたように思います。もちろん、子どもはその時々の価値観から、親の声が疎ましく感じられる時があるということも、自らの経験を通して理解しています。

親は子どもを愛おしく思うがゆえに、時には厳しく接することもあり、また、きょうだいがいれば当然「平等に」と思います。それらは、日々成長していく子どもに対して、先々間違いのない人生を歩んでほしいと願う上でのことであり、まさしく「親心」です。

天理教では、この親心が、人類の親である親神様から見たすべての人間に対しても、同じであると教えられているのです。

親神様は、私たち人間に、互いに立て合いたすけ合って、陽気に暮らすことを望まれています。その一方で、親神様は、人間には欲望があり、損得勘定の心もあり、さらには人の好き嫌いもあるということを重々ご承知です。

目の前の出来事に対して、「自分がしなくても、誰かがしてくれる」「自分一人でするのは損だ」と、損得や好き嫌いで振り分けて、自分本位に捉えて行動する。しかし、そのような言動を続けるうちは、陽気ぐらしにはたどり着けないのです。

「あまり得意じゃないけど、誰かがたすかるなら自分がやろう」「ちょっと苦手な人だけど、自分から笑って話しかけよう」。そうして、親神様はどうすれば喜んでくださるかという思いで、自らの行動を変えることができた時、きっと親神様は飛び上がるほど喜んでくださるのではないかと思います。

私の子どもは四人とも天理の高校を卒業し、それぞれの歩みを進めてくれています。長女が高校卒業後の進路を決める時、彼女がやりたいことがあるのを、私たち夫婦もうっすらと感じていました。しかし、私たちが彼女に望んでいたのは、天理教の信仰をもっと深く学ぶために、天理教校専修科という学校に進むことでした。

「将来あれもしたい、これもしたい」と妻や私に言ってくるのですが、娘の希望を尊重してやりたいと思いつつも、手放しでは喜べませんでした。

そして、いよいよ暮れも押し迫った頃、天理で寮生活をしている本人から電話がありました。娘は開口一番、「私、専修科に行くことにするわ。お父さん、嬉しい?」と言うのです。私は突然のことで「そうか、そら嬉しいよ」と喜びをかみ殺したように返事をしましたが、内心では飛び上がるほど嬉しかったのです。

専修科に行くと決心してくれたこともそうですが、何より、「お父さん、嬉しい?」と聞いてくれたこと、つまり、「お父さんとお母さんが喜んでくれるなら」と考えて進路を決断してくれたことが、何より嬉しかったのです。

子どもが親に対して嬉しいことをしてくれた時、親はどんな気持ちになるでしょうか? 私はいつも以上に「子どもを喜ばせてやりたい」という気持ちが強くなりました。

と言って大して策のない私は、電話口で「今なら何でも買ってあげるよ。何か欲しいものはあるか?」と月並みなことを言いました。高価な物を買ってやるような余裕はありませんでしたが、とにかく娘を喜ばせてやりたい一心でした。

娘はここぞとばかりに「デジカメが欲しい」と言い、冬休みに帰ってきた時に、あれこれと工面してデジカメを買ってやりました。当時の私にすれば大変高価な買い物でしたが、お釣りがくるぐらい、全く惜しいとは思いませんでした。

その時私は、きっと親神様も同じお気持ちなのだろうと思いました。親神様が飛び上がるほど喜んでくだされば、やはり私たち人間にご褒美をくださると思います。それは、人との出会いや様々な場面でのタイミングなど、自分自身の努力ではどうしようもないところに、喜べることを用意してくださるというご褒美です。

そのご褒美を「たまたま」と捉える人もいるかもしれません。しかし、「まいたる種は皆はえる」と教えてくださいます。「こうしたら、きっと親神様はお喜びくださるだろう」との思いから出た行いは、必ずお受け取りくださるのです。

(終)

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