(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1216回

食べ物を通して感じること

教会で、ひとり親家庭への食料支援を始めた。きっかけは、コロナ禍で生活に困った母親の悲痛な訴えだった。

食べ物を通して感じること

 和歌山県在住  岡 定紀

 

前回、去年の夏休みに私たち家族がコロナに感染し、発熱はもとより下痢や頭痛で大変だったお話をしました。回復してからもしばらく家を出られず、不自由な生活が続き、健康で外に出られることの有り難さをあらためて感じました。

さて、コロナが世界的に拡大して、もう三年が経ちます。それまで教会で開いていた「こども食堂」は、大人数での賑やかな会食ということで中止せざるを得ず、その代わりに、ひとり親家庭への食料支援を始めることになり、現在も続けています。今日はその経緯をお話ししたいと思います。

2020年の3月から、全国の学校が一斉臨時休校となったのはご存じの通りです。この時、こども食堂を中止したのですが、その直後にあるシングルマザーの方から、「仕事が休みになり給料が半減し、先行き不安です。何か食料を頂けないでしょうか」と相談を受けました。

その方は、保育園に一人娘を通わせているのですが、「仕事が休みなら自宅で面倒を見てください」と言われたとか。将来の不安が募る中、自宅でずっと子どもと一緒にいるとイライラして、つい手を出しそうになるという悲痛な訴えでした。そこで、とにかくお母さんを落ち着かせようと、お米などの食料をお渡しするだけでなく、じっくりお話を聞いて、少しでも安心感を持ってもらえるように努めました。

さらに周りを見てみると、同じ保育園に通うひとり親で、似たような状況にある方がかなりいることが分かってきました。そこで、コロナで出来なくなったこども食堂の代わりに、食料支援をすることになったのです。

就いては、どうやって食料を用意しようかと考えていたところ、コロナによって行き場を失い、廃棄処分されようとしている食材があることが分かり、それを困っている家庭に回すことができないかと、あちこちに相談しました。

この食べ物の廃棄は「食品ロス」と言われ、大きな社会問題になっています。農林水産省の報告によると、本来食べられるのに廃棄されてしまう食品の量は、令和二年度で年間522万トンと推計されています。これは日本人一人当たりが、毎日お茶碗一杯分のご飯を捨てているのに近い量だということです。

この食品ロスを減らすためには、家で食べ残しが出ないようにするだけでなく、スーパーで買い物をする時も、奥から商品を取らずに、陳列されている賞味期限の順番に買ったり、包装に少しのキズや汚れがあっても、中身に問題がなければそのまま買ったり、外食の際も食べ切れる量を注文し、食べ残しを出さないなど、一人ひとりのちょっとした行動が効果を生みます。

さらに広い目で見れば、その一人ひとりの心掛けが、食料資源の有効利用や地球温暖化の抑制にもつながり、私たちの生活を守ることになるのです。

コロナ禍にあって、食品ロスの問題と、食べ物に困っている家庭の実情があぶり出された感があります。この食料支援の活動には多くの方が力を寄せてくださり、生活の苦しいひとり親家庭の手助けをすることができました。

ところで、私は子どもの頃、お茶碗に一粒のお米でも残さないようにと、母親に言われて育ちました。また、何でも「美味しい」と感謝して食べることが大事であると、常々言われてきました。

口から食べた物が体内に取り込まれ、隅々まで栄養が行き渡るのも、神様のお働きであると聞かせて頂きます。魚などの生き物だけでなく、お米や野菜のような植物も生きているわけで、あらゆるものの命を頂いて、私たちの命はつながっていくのです。

また、天理教の教祖・中山みき様は、「菜の葉一枚でも、粗末にせぬように」と教えてくださっています。そして、「世界には、枕もとに食物を山ほど積んでも、食べるに食べられず、水も喉を越さんと言うて苦しんでいる人もある。そのことを思えば、わしらは結構や、水を飲めば水の味がする。親神様が結構にお与え下されてある」と仰せられました。

コロナに感染した知人の中には、味覚障害が残っているという人もいます。私は感染しても味覚は大丈夫でしたが、水が味わえる身体の働きに、普段から感謝することが大切であるとあらためて感じました。

コロナ禍にあって、食品ロスの問題を考えるようになり、食料支援の活動を通して、食べるということについて深く考える日々を送っています。次回も、この事についてお話ししたいと思います。

 


 

感謝の心、人から人へ

 

お昼時のファミリーレストランの店内。テーブルには三世代家族が仲良く座り、まだ三、四歳ぐらいの小さな子どもが、母親とおばあちゃんの前ではしゃいでいます。そのうちに、その子は勢いよく通路を走り始めました。

通路の側に座っていたおばあちゃんは、「危ないよ」と声をかけながら、そっとテーブルの角に自分の手の平を当てました。すると次の瞬間、子どもはおばあちゃんの手の甲に頭をぶつけてしまいました。びっくりしたのか、子どもは大人しくなり、元の席に静かに座りました。

隣りにいたお母さんは、「すみません」とおばあちゃんに謝りました。「だいじょうぶ、だいじょうぶ」と、おばあちゃんは何事もなかったように、目を細めて孫を見つめていました。

これは、どこにでもある家族の光景です。おばあちゃんの記憶にも、子どもの記憶にも残らないかもしれません。無論、おばあちゃんも、「あの日、あなたが頭にコブを作らなかったのは、私が手を出して守ってあげたからよ」などと、後になって恩着せがましく言ったりはしないでしょう。しかし、子どもをケガから救ったのは、紛れもなくおばあちゃんの優しさでした。

神様と私たち人間の間でも、日常これと似たようなことが起こっているのではないかと、ふと考えます。神様は私たち人間が危ない目に遭わないよう、先回りしてご守護くださっている。それは、決して語られることのない無償の愛情ではないだろうかと。

天理教の信仰者は、「神様は大難を小難に、小難を無難にお導きくださっている」と常々口にします。大きい災難を、小さな災難にして頂いた。小さな災難に遭うところを、何事もなく無事に通らせて頂けた。目の前で起こる出来事からそう悟っていきます。

「そんなことがあるものか。すべては偶然だ。起こるべくして起こるのだ」そう考えるのも、個人の自由です。しかし一つだけ確実に言えるのは、「神様に守っていただいている」と思う人の心には、その瞬間、感謝の気持ちが芽生えているということです。その感謝は、その人の心に優しさを生みます。

先ほどのシーンで言えば、おばあちゃんの優しさにふれたお母さんは、おばあちゃんに感謝します。そして次に自分が同じような場面に出合えば、自然に同じ行動を取るはずです。

こうして恩は人から人へと送られていきます。これが、信仰が育む風景であり、感謝がもたらす心豊かな生活のありがたさだと思うのです。

(終)

 

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