第1210回2022年12月24日・25日放送
心の底からおめでとう
姪から結婚式の招待状が届いた。難しい病気やケガを乗り越えた彼女の幸せな姿に、心の底から拍手を送った。
心の底からおめでとう
青森県在住 井筒 悟
我が家で暮らす長男夫婦に女の子が生まれました。初めての内孫です。生後五ヶ月になりますが、食事の時、向き合う母親の顔をじっと見ています。母親がにっこり笑うと、一緒になって笑い、スプーンで運ばれる離乳食をおいしそうに食べます。その親子のやり取りを見ているだけで、周りの空気が和みます。
私は、教会へ参拝に来る若いお母さん方に、次のようなお話をします。
「子どもはお母さんの顔を見て育ちます。きっと、お母さんの顔を自分の表情として真似していくのでしょう。ですから、子どもには出来るだけ顔をきちんと見せて、笑顔で語り掛けてくださいね」
さて、先日、妹の娘のあかねちゃんから結婚式の案内状が届きました。私からすれば姪っ子にあたります。
あかねちゃんは生後五ヶ月の頃、突然の発熱で顔の表情がなくなり、顔面神経麻痺と診断されました。しかも脳や脊髄などの先天性の原因であれば、生涯笑うこともできず、身体の半身は動かなくなると伝えられました。
いま目の前にいる内孫と同じ頃に、そのような宣告を受けたのです。妹にすれば、結婚して四年目に授かった待望の第一子であり、周囲の喜びも大きいものでした。それだけに、病状を伝えられた時のショックは計り知れないものだったと思います。
このとき家族を救ったのは、信仰の力でした。妹夫婦は、子どもの病気を通して、自らの心遣いや夫婦のあり方を見つめ直しました。そして、「人たすけたら我が身たすかる」との教えを再確認し、子どもの問題で悩みを抱える夫婦や家族のおたすけに奔走しました。おかげで、あかねちゃんの病状は徐々に回復し、大きな後遺症も残りませんでした。
その後、天真爛漫に育ったあかねちゃんでしたが、高校入学後に大きな災難に遭いました。
ある日、ふとした拍子で転び、左膝に傷を負いました。数針縫った程度で、処置も早く大事には至らないと思われましが、その後、左足がどんどん腫れていきました。傷口からばい菌が入り、足全体が化膿していたのです。
病院で検査をしたところ、いま足の付け根のリンパ腺で持ちこたえているばい菌が、もし全身に回れば命の危険さえあると告げられました。
そして仮にたすかっても、この菌を抑えるためには生涯、点滴投与を続ける必要があるとのこと。どちらにしても、家族にとっては辛すぎる宣告です。彼女の将来を考えると、結婚はおろか、人並みの生活すら難しい状況が予想されます。
妹の旦那さんは、地元でPTA会長や教誨師をつとめ、信仰信念も厚く、普段は冷静沈着な方です。しかしさすがにこの時は、心が折れそうになったと言います。
そんな折、彼は、信仰へ導いてくれたご婦人に、胸の内を聞いてもらう機会に恵まれます。
ご婦人は、「神様は、あなたの周りに喜べることをたくさん用意してくださっているよ。でも、それは小さくて見つけにくいかもしれない。だから、夫婦で一生懸命喜び探しをしてごらん。今日は嫌なこともあったけど、よく考えてみたら、どれも有り難いことばかり。そうやって一日々々通っていけば、たくさん喜びが見えてくるよ」と、アドバイスをくださったそうです。
そこで彼は、心配と不安で心が曇り、何も見えていなかった自分に気づきます。そしてその日から夫婦で、どんなことも喜ばせてもらおうと心に決めました。
これもうれしい、あれも楽しい、幸せ、何もかもありがたい。そんな喜び探しの日々の二人の姿に応えるように、あかねちゃんは奇跡的に快復していったのです。
親からすれば、子どもが病むほど辛いことはありません。しかし、その辛さゆえに親は心を入れ替え、成人を遂げていくことができる。子どもによって親は育てられているのです。まさに子どもは恩人です。
あかねちゃんの結婚式当日は、雨の予報に反して晴天となりました。両親と共に歩んできた日々。大雨が降る中もみんなで乗り越えてきたからこそ、晴れた時の喜びは大きいもの。明るい太陽に照らされる新郎新婦の姿を見て、私は妹家族のこれまでの苦労に思いを馳せました。
人は結婚すると、自分一人の時より相手の分だけ心の幅が広がります。子どもを授かると、さらにその幅は広がります。
夫婦や家族、あらゆる人間関係において、どんな中でも喜びを探して、相手を受け入れる努力をする。すると、不思議に心が楽になります。反対に相手を受け入れようとしなければ、心はどんどん苦しくなります。
私は新郎新婦に、「大切なのは、お互いが同じ価値観を持つことではなく、相手を受け入れ、認め合うこと。これをテーマにすれば、面白い人生が展開すると思うよ」と、はなむけの言葉を贈りました。
隣りで聞いていた妻は、「あなたにこそ、その言葉を贈りたいわ」と言いた気な表情で、私にジッと視線を送りました。
御苦労さん
天理教教祖・中山みき様「おやさま」について、当時、お屋敷で教祖のお側に仕えていた高井直吉さんは、このように語り伝えています。
「教祖程、へだてのない、お慈悲の深い方はなかった。どんな人にお会いなされても、少しもへだて心がない。どんな人がお屋敷へ来ても、可愛い我が子供と思うておいでになる。
どんな偉い人が来ても、
『御苦労さま』
物もらいが来ても、
『御苦労さま』
その御態度なり言葉使いが、少しも変わらない。皆、可愛い我が子と思うておいでになる。それで、どんな人でも皆、一度、教祖にお会いさせてもらうと、教祖の親心に打たれて、一遍に心を入れ替えた。教祖のお慈悲の心に打たれたのであろう。
例えば、取調べに来た警官でも、あるいは又、地方のゴロツキまでも、皆、信仰に入っている。それも、一度で入信し、又は改心している。」(教祖伝逸話篇 195「御苦労さま」)
この教祖の「御苦労さま」というひと言は、多くの人の人生を変えました。このような逸話が残されています。
明治十七年春、当時二十三歳の佐治登喜治良さんは、陸軍の大阪鎮台に入隊中、大和地方へ行軍し、奈良市の旅館に宿営していました。
この時、宿の離れに人の出入りがあり、宿の亭主から、「あのお方が、庄屋敷の生神様や」と教えられ、赤衣を召された教祖のお姿を遠くから拝見しました。
やがて教祖が、直ぐそばをお通りになった時、登喜治良さんは言い知れぬ感動に打たれ、丁重にお辞儀をしました。すると、教祖は静かに会釈を返され、「御苦労さん」と、お声を掛けられました。
登喜治良さんは、教祖を拝した瞬間、得も言われぬ崇高な念に打たれ、お声を聞いた一瞬、神々しい中にも慕わしく懐かしく、ついて行きたいような気がしたと言います。
後年、登喜治良さんは、「私は、その時、このお道を通る心を定めた。事情の悩みも身上の患いもないのに、入信したのは、全くその時の深い感銘からである」と、いつも人々に語っていました。(教祖伝逸話篇146「御苦労さん」)
(終)