(天理教の時間)
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第1283回2024年5月24日配信

じいちゃんにまた会える日

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関根 健一

文:関根 健一

第1208回

コロナに感染して思ったこと

夏休み、家族がコロナに感染。その後参加したおぢばの行事で、健康であることの価値をより一層感じた。

コロナに感染して思ったこと

和歌山県在住  岡 定紀

 

毎年夏休み、奈良県の天理市で「こどもおぢばがえり」という行事が開かれます。昭和29年から始まり、毎年20万人以上が参加する天理教の一大行事です。全国から集まった子どもたちのために、あちこちに遊び場やプールが設置され、ミュージカルやバラエティーショーなど沢山の催しもあり、とても一日では回り切れない、楽しさ一杯の行事です。

夜は花火とともにパレードを皆で観戦し、宿泊所に戻りお風呂に入って就寝します。友達同士でふとんを並べて寝るのはとても楽しくて、一生忘れられない思い出となります。

そもそも「おぢばがえり」とは、「ぢば」へ帰るという意味です。奈良県天理市にある「ぢば」は、人間創造の場所、世界人類のふるさとであると教えられており、人々が親元を慕うように、この「ぢば」へ帰ることを「おぢばがえり」と言うのです。

さて、この「こどもおぢばがえり」も二年前に新型コロナウイルスの感染が拡大してから中止が続き、もう三年間開かれていません。全国的にもコロナ禍により、大勢が参加する行事はことごとく中止になり、子どもたちの楽しい思い出となるはずの多くの機会が失われました。

それでも、何とか楽しい思い出を作ってあげようと、地域の学校や自治会、スポーツクラブの方々が、換気の良い広い場所を用意し、感染対策を取りながら子どもたちの行事に取り組んでいる姿には、本当に頭が下がります。

私の教会でも、以前は賑やかに「こども食堂」を開いていたのですが、感染拡大後は大勢での会食はやめ、みんなで宿題をしたり、ゲームをして遊んだりと、少人数ながら楽しめる場所を提供してきました。

今年も夏休みに入ってからは、毎日のように数人の子どもたちが来て楽しく過ごしていました。そんなある日、うちの次男がプールに行きたいと言って、友達と四人で出かけていきました。

夏のプールの楽しさは格別で、子どもたちは笑顔で帰ってきたのですが、しばらくしてから次男が身体の節々が痛いと言い始め、次にのどがイガイガしてきたと言い、熱も38度近くまで上がってきました。

もしかしてと思い病院に連れて行ったところ、案の定、コロナに感染していました。すぐに一緒にプールへ行った友達の親御さんに連絡すると、みんな症状が出始めたとのこと。

同時に私たち家族も濃厚接触者となり、自宅待機の生活が始まりました。

家では子どもとの接触を極力避けたつもりでしたが、二日後からほかの兄弟や妻も熱を出し、とうとう私にも症状が出て、長男を除いて皆、コロナに感染してしまいました。

私は特に頭が割れるように頭痛がひどく、高熱に身体のだるさ、食欲不振が続き、辛い思いをしました。現在は重症化率が下がり、無症状の人も多いと報道されていますが、実際にかかると予想以上に大変で、回復しても10日間は外に出られない不自由な日々が続きました。

このため、夏休みに家族で出かける機会もなくなったわけですが、ちょうどテレビでは、夏の甲子園を目指す高校生が、コロナ感染で試合を断念せざるを得なかったニュースを取り上げていました。

ずっと甲子園を目指して野球に打ち込んできたのに、最後の最後に試合ができない無念さを思うと、やるせない気持ちになります。一日も早くコロナが収束し、皆が元気いっぱい過ごせる日々が来るように願う気持ちがますます強くなった次第です。

さて、今年の夏休み、おぢばでは「こどもおぢばがえり」の代わりに「夏休みこどもひのきしん」という行事が開かれ、我が家の子どもたちも参加しました。

この行事の目的は、「ひのきしん」という言葉にあります。ひのきしんとは、神様から身体をお借りし、日々ご守護を頂いて生きているご恩に報いる、感謝の心からの行いを言います。具体的には、神殿の廊下を拭いたり、境内地の草抜きをしたり、健康な身体に感謝しながら汗を流します。

その後、感染対策をしながらお楽しみ行事を満喫し、帰ってきました。日帰りの半日だけの経験でしたが、コロナに感染した後から思うと、健康であることの価値がいっそう感じられ、子どもたちにとって夏休みの良い思い出になったと思います。

毎朝子どもを学校に見送るまでが一大事で、ドタバタの中、ストレスを感じる日々を送っていますが、夕方無事に帰ってきてくれる姿に、親としての幸せを感じています。これからも、健康に過ごせる身体に感謝しながら、子どもたちと共に「ひのきしん」の日々を送っていこうと思います。

 


 

ほこりばかりを思案している

 

良いことをしようと思ってもままならず、悪いことをするまいと思っても、ついついそちらへ流れてしまう。私たちはこうした経験をしばしば繰り返し、そのたびごとに自分の弱さというものを嫌というほど味わいます。

神様は、人間に心を自由に使うことをお許しくだされていますが、もし私たちの心が本当に自由であったら、こんなことは起こるはずがありません。心を自由に使えるといっても、すべてが思い通りになることとは大きな開きがあるのであって、つまり私たちは、本来自由であるべき心を持ちながら、その自由を失っているのです。その原因となるのが、神様の思いに添わない、「ほこり」の心遣いです。

ここで、心遣いを反省する手掛かりとして教えられる「八つのほこり」のうちの、「にくい」というほこりについて考えてみます。もし私たちの心が自由なら、ある特定の人に対してにくいと思うことがあっても、同時に「いやあ、そうは言ってもあの人なりのいい所があるからなあ」と、クールダウンできるはずです。

にもかかわらず、その人の顔を見たら「にくい」という感情しか湧いてこない、もはや自分の力ではどうにも抑えられないとなったら、それこそ自分の心の内がすべて「にくい」という感情に占領され、完全に自由を失っている状態です。まさに、「にくい」というほこりまみれの心です。

他にも、欲望に負けるとか、感情におぼれる、頭がカーッしてきたというような状態も、これに当たるでしょう。人間には、ほこりに固執する自由もまた許されているという、実に面倒な負の側面があるのです。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

  月日にハせかいぢううハみなハが子
  かハいゝばいをもていれども(十七 68)

  それしらすみな一れつハめへ/\に
  ほこりばかりをしやんしている(十七 69)

とあります。

月日と呼ばれる神様にとって、世界中の人間は皆可愛い我が子であるが、その親心を知らずに、人間は皆銘々がほこりの心ばかりを使っている。

「ほこりばかりを思案している」とは、実に驚くべきお言葉であり、私たちがいかに神様の思いから遠い所に生きているかがよく分かります。

ほこりばかりを思案し、それに慣れてしまっている状態から抜け出すこと。自分の心から放たれる匂いに、一人ひとりが敏感にならなければ、陽気ぐらしに近づくことはできないのです。

(終)

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