(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1202回

成長するというコト

字を理解できない三歳の娘が、絵本を見ながら何やら自作の物語を語っている。子どもの想像力には驚くばかりだ。

成長するというコト

岡山県在住  山﨑 石根

 

私の住む地域では、昔から子どもの歯が抜けると「♪ネズミの歯と代えてくれ~♪」と歌いながら、上の歯は縁の下に、下の歯は屋根の上に、抜けた乳歯を投げていました。

本当にネズミの歯と代えられると困ってしまいそうですが、「ネズミのような丈夫な歯に生え変わるように」と願っての慣習なのでしょう。

我が家の子どもたちも全員、同じようにしてきましたので、みんな歯が抜けると嬉しそうに私の所に持ってきます。先日、出張先から帰ってくると、小学二年生になる末娘が抜けた歯を大事そうにティッシュに包み、「とと、一緒に屋根に投げよう」と持ってきました。「おっ、また一つ大きくなった証拠じゃなぁ」と、私は嬉しくなりました。

この末娘には、おもしろいエピソードがたくさんあります。彼女が二歳の時、雨の日に妻と散歩をしている最中のことです。突然、教会の塀を指差して、「お前の頭がおる!」「お前の頭がおる!」と、何度も叫んだそうです。

ビックリした妻がその方向を見ると、何と塀にいたのはカタツムリでした。「お前の頭…?」しばらく考えた妻の頭に、ある童謡が浮かびました。

「♪でんでんむしむしカタツムリ♪お~まえの頭は…♪」

「これか!」と気づいた妻は、その場で大笑いしたそうです。

そして、三歳の頃には、まだ字を読めないはずの彼女が絵本を開きながら、大きな声で何やら物語を読んでいることがありました。

よく聞いていると、絵を見ながら創造した自作のストーリー。ただし、子どもが作るのですから当然ハチャメチャで、つじつまの合わない内容なので、周りのお兄ちゃんたちは大爆笑。でも、私たち夫婦は思わず大拍手でした。小さな彼女の想像力が嬉しく、頼もしく感じたからです。

学生時代、心理学を専攻していた私は、日本の臨床心理学の礎を築いた、故河合隼雄先生の講演を聞く機会がありました。お話の中で先生が、「子どもの遊びの内面には、広大な宇宙が存在する」と仰っていたのを思い出します。知識を身につけ、常識を覚えていくことが、「ある意味」で大人になるということなのでしょうが、理解の及ばない想像力を、ただ単に子どもの未熟な発想だと決めつけてしまうこと自体が、大人の固定観念なのかも知れません。

例えば、その後四歳になった彼女と妻が登園中の出来事です。カラスが「カーカー」と鳴いていたので、何気なしに妻は、「カラスが鳴いてるよ」と彼女に伝えました。すると、「お母ちゃん、違うで~。カラスはカーカーと笑ってるんで~!」と、教えてくれたのです。

どうやら彼女は、妻が口に鳥と書く「鳴く」の意味で言ったのを、さんずいの「泣く」と受け取ったようです。

「カラスはしくしく泣いているんじゃないのよ。笑っているのよ」と、母親に伝えたかったのでしょう。

動物の鳴き声は、「お話ししている」とも「怒っている」とも、いかようにも捉えられます。せっかくなら「笑っている」と考えたほうが幸せな気持ちになるなぁと、妙に得心したのを覚えています。

ところが、最近の食卓での会話です。小学二年生になった彼女が、おじいちゃんとおばあちゃんに話しかけていました。

「カラスは何で鳴くか知っとる? 山に七つの子どもがおるからで~」

ご存じ童謡「七つの子」の歌詞からでしょう。もちろん、これが成長するというコトなんでしょうが、昔のエピソードと比べて何だか物足りず、さみしい気持ちになったので不思議です。

さて、娘の歯医者さんの定期検診の際、「久しぶりなのでレントゲンを撮りましょう」となり、付き添った妻に先生がレントゲンを見せてくれました。そこには、乳歯とは別に、歯茎の中で待機している永久歯がバッチリ写っていました。抜けた前歯がなかなか生えてこないことを心配していた娘は、前歯の永久歯もきちんと存在していることを確認し、安心していたそうです。

しかし考えてみると、本当に不思議でなりません。人間の歯が生え変わる理由を調べてみると、顎が小さい子どもの頃には小さい歯が生えていて、成長すると顎が大きくなるので、その顎にピッタリの大きい歯に生え変わるのだとありました。

理屈はそうなのでしょうが、では、その仕組みは誰が作ったのかを想像するとただただ不思議でしかなく、人間を創られた神様のご守護の素晴らしさに、あらためて感謝の気持ちが湧いてきました。何より、子どもたちが豊かな発想で私たち親を楽しませてくれるのも、今この瞬間にも、成長の過程でお守り下されている事実があればこそと、有り難くて仕方がないと思ったからです。

ところで、末娘の成長のエピソードをこうして思い出しているうちに、気づいたことがありました。どの出来事も、妻とのやり取りばかりだったのです。

私は留守が多いので当然かもしれませんが、それを妻に伝えると、「そうそう、あなたは抜けた歯を投げるだけね」と笑われました。

「でも、あと何本、投げさせてもらえるかなぁ…」ふと私は、切なさを感じながら、妻につぶやいたのでした。

 


 

鏡のごとくに映るなり

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」が教えられた「みかぐらうた」に、

  みなせかいのむねのうち
  かゞみのごとくにうつるなり(六下り目 三ッ)

とあります。

このお歌とともに教えられた手振りでは、「うつるなり」のところで、合わせ鏡を見るような動作をします。合わせ鏡とは、二枚の鏡を向かい合わせにして、後ろ姿などを見えるようにすることを言います。

こうして、普段は見えない部分が合わせ鏡によって映るように、私たちの胸の内、いわゆる心の中も、神様はすべてご覧になっているというお歌です。

ところが、当時の人々の多くは、人間のお姿をされている教祖に、神様が入り込まれているとは心底から信じられず、教祖にお会いしても、まさか常日頃の胸の内がすべて見られているとは、思えなかったようです。

このような逸話が残されています。

ある年の暮れに、一人の信者さんが立派な重箱にきれいな小餅を入れて、「これを教祖にお上げして下さい」と持ってきました。側の者がさっそく教祖にお目にかけると、いつになく「ああ、そうかえ」と仰せられただけで、ご満足の様子はありませんでした。

それから数日して、別の信者さんが、「これを、教祖にお上げして頂きとうございます」と言って、粗末な風呂敷包みを出しました。中には、竹の皮にほんの少しばかりの餡餅が入っていました。また側の者がお目にかけると、今度は「直ぐに、親神様にお供えしておくれ」と、非常にご満足の様子でした。

これは後で分かったことですが、先の人はかなり裕福な家の人で、正月についたお餅が余ったので、それを持ってきたに過ぎず、後の人は貧しい家の人でしたが、やっとのことで正月のお餅をつくことが出来たので、「これも、親神様のお蔭だ。何は措いてもお初を」と、そのつき立てのところを持って来たのです。教祖には、まさに二人の人のこうした胸の内が鏡のごとくに映り、よくお分かりになっていたのでした。

こういう例はたくさんあったようで、その後、多くの信者さんが珍しいお供え物を持ってきた時にも、教祖は、品物よりも、その人の真心をお喜びになるのが常でした。そして、中に驕り高ぶったこうまんの心で持ってきたようなものがあると、それをお召し上がりになっても、「要らんのに無理に食べた時のように、一寸も味がない」と仰せられました。(教祖伝逸話篇 7 「真心の御供」)

(終)

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