(ラジオ天理教の時間)
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第1180回2022年5月28日・29日放送

安心感は足元にある

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1177回

ガラスの四十代

次男が「お腹が痛い」と訴えて一か月以上が経つ。子どもがどんなに苦しくても、親は見守ることしかできない。

ガラスの四十代

岡山県在住  山﨑 石根

 

「〝親〟という漢字は〝木の上に立って見る〟って覚えるんよ。みんなのお父さんもお母さんも、こうやって子どものことを心配して見守ってくれているんよ」

私が小学二年生の頃、担任の先生がそうして黒板に絵を描きながら教えてくれたのですが、なぜだかその場面を今でもハッキリと覚えているのです。

きっと、幼心にも妙に得心したからなのでしょう。後にそれが俗説であり、漢字の成り立ちからは意味合いが違うことを大人になって知るのですが、私は「親が見守ってくれている」という解釈や覚え方のほうが、何だか好きなのです。

それは自分が親になったからこそ、余計に強く思うのかも知れません。子どもが困難にぶつかった時、あるいは病気になった時、どんなに代わってあげたくても親は見守ることしかできません。

天理教では、神様は人間をお創り下された私たち人間の親であると教えて頂くのですが、きっと神様も、子どもである私たちを心配しながら、ずっと見守って下さっているのだと思うと、くじけそうな時も立ち上がる勇気が湧いてきます。

私の子どもが通う中学校のPTAの会長さんは、日本アンガーマネジメント協会の認定資格を持っています。アンガーマネジメントとは、簡単に言うと「怒りをコントロールするスキル」だそうですが、昨年の12月、中学一年生を対象に講座が開かれました。

講師を務められたPTAの会長さんが、感想を教えてもらえたら嬉しいと仰っていたので、私は中一の次男に尋ねてみました。私はその時、出張中で電話で尋ねたのですが、「ゲームみたいなのをしながら、自分で怒りを治める方法が具体的に分かったで」と教えてくれました。

ところが翌日、妻がため息をつきながら電話をしてきました。長男と次男が喧嘩になり、次男が玄関の戸を蹴ってガラスが割れてしまったと言うのです。まだ興奮が治まらない彼に電話を替わってもらうと、叱られると思ったのか、元気のない声です。しかし、その前夜、絶妙のタイミングで怒りを治めることについて話し合っていたので、とても話がしやすかったのです。何より怪我のないことが確認できたので、本人と思いがけず深い相談ができたような気がします。

話し合いの結果、本人も納得した上で、ガラス代を弁償させることにしました。お小遣いも少なく、喧嘩のいきさつを考えるとあまりにも可愛そうだと妻は反対しましたが、私は自分の失敗とはきちんと向き合うべきだと思ったのです。どんな理由があったとしても、物を傷つけた事実に変わりはありません。それが人でなくて、本当に良かったと思います。

その頃、次男はよく腹痛を訴えていました。同じく12月の初旬に、大きな病気を心配した妻が、本人を連れてかかりつけ医を受診したのですが、医学的な原因は見つからず、「様子を見ましょう」と言われたそうです。

しかし、一向に痛みが治まらないので、年明けに別のお医者さんにも診てもらいましたが、やはりどこも悪いところは見当たらず、「ストレスかなぁ」と言われたようです。ストレスの理由など明確に見つかる訳ではありませんが、ちょうどその時期、次男の一番の親友が転校するという出来事があり、思い当たる節がない訳ではありませんでした。

その後も毎日「お腹が痛い」という日が一か月続き、しびれを切らした妻が、「違う病院に、今度はあなたが行ってきて」と、三度目の受診というミッションを私に下しました。妻にしてみれば、大きな病気が心配なのです。

もちろん不安な気持ちは私も一緒なのですが、結果は一緒だろうなぁと思いつつ受診すると、案の定「やはりストレスかなぁ」との意見。お医者さんは、色々な可能性もあげた上で、「お父さん、中学生ぐらいになるとストレスも立派な原因だったりするんですよ」と、丁寧に教えてくれました。

その日、次男は学校から帰宅するや、「クラスのみんなが『どこが悪かったん?』って聞いてくるから、『腹痛の原因がストレスじゃった』って言うたら、みんな『分かるわぁ』って言うてたわ」と、どこか嬉しそうに報告してきました。どうやらストレスは、同世代の共感を呼ぶようです。

それを聞いていた長男が、「お前にストレスなんてないじゃろうがぁ」と言い出すので、「そんな余計なこと言うから喧嘩になるんじゃがなぁ」と内心ヒヤヒヤしながら、ストレスの話で盛り上がる十代って不思議だなあと、夫婦で苦笑いするしかありませんでした。

とは言え、たとえ腹痛の原因が病気であってもストレスであっても、そのことと向き合って乗り越えなければならないのは本人なのです。どんなに代わってあげたくても、親はやっぱり見守ることしかできません。そんな時に、神様に祈る術を知っている私たち信仰者は有り難いなあと、しみじみ思いました。

その日の夜、たまたまスマホで、ある心理テストを見ていました。AからDの4のコタツのどれに入りたいかという質問。これによって、「あなたが今、自分のために大切にすべきこと」が分かるらしいのですが、長男と次男がスマホをのぞき込んで、参加してきました。

Aを選んだ長男は、「頑張りすぎるので、適度に休息をとりましょう」

Cを選んだ次男は、「多様性が尊重される時代、色々と挑戦しましょう」

そして、Dを選んだ私は、「ストレスを溜めやすいので、ムリをして前向きに振る舞わないようにしましょう」

一番心配性でストレスを抱えているのは、次男でも妻でもなく、実は私だったという結果に、そばで聞いていた妻は、笑いをこらえるのに必死な様子でした。私も、まだ青春しているのかな。

 


 

道徳を超えた教え

 

江戸末期、全国的に広まった思想として、石田梅岩の心学道話と、二宮尊徳が創始した報徳運動の二つがありました。

心学の教えは、日本におけるあらゆる宗教や道徳の教説を、人道主義に基づいて折衷したものでした。心の曇りを取り払い、人間本来の魂の純粋さを強調する説を、学問のない庶民にも通じるように平易にし、理論よりも日常生活における実践に重点を置くことで、庶民の道徳向上に大きな役割を果たしました。

また、二宮尊徳によって提唱された報徳運動は、自然と人生に対する報恩感謝を、教えの根本とするものでした。人間の生活は自然の恩恵によって支えられているもので、これに対する感謝を忘れてはならない。その上で、その自然の恩恵から豊かな収穫を得られるように努力を重ねていく。道徳的な誠実さと経済的な節約を何より重んじるこの思想も、農村を中心に人々の間に広まっていきました。

これと同じ時代環境において説かれた、天理教教祖・中山みき様「おやさま」の教えは、一見、これら封建社会における倫理道徳と相通じるものに見えますが、その本質は全く異なっています。当時の社会制度を言葉で直接批判することはありませんが、教祖はまず、当時の人々にとって重要とされていた家柄や身分、財産、格式、こうしたものを捨て去ったところから教えを説き始めておられます。

「貧に落ち切れ」と、食べ物や着る物、金銭などを困っている人々に何の惜し気もなく施されたひながたや、「女松男松の隔てなし」「高山に育つる木も、谷底に育つる木も同じ魂」といった、一人ひとりの人格を尊重されたお言葉など、当時の人々には未知であった、深く人間性の根底に根を下ろす教えであったのです。

教祖直筆による「おふでさき」には、

  いまゝでもしんがくこふきあるけれど
  もとをしりたるものハないぞや(三 69)

  そのはづやどろうみなかのみちすがら
  しりたるものハないはづの事(三 70)

と記されています。

教祖の教えは、人々にこの世界の元を知らしめ、心の入れ替えを促す教えです。時代に流されることのない、世界の源から説き起こされる真実の教えは、やがて人々の心を動かし、厳しい反対や妨害の中にも、次第に真剣にこの道を通る者を増やしていったのです。

(終)

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