(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1171回

勇気の「ゴメンナサイ」

「ごめんなさい」と素直に謝れる人は強い人だ。子どもたちの素直さには、こちらがしばしば教えられる。

勇気の「ゴメンナサイ」

岡山県在住  山﨑 石根

 

とある人気アニメの影響で空前の鬼退治ブームの昨今ですが、子どもが悪いことをした時に「鬼が来るよ」と言ったりするのは、今も昔も親の常套句です。地方によっては、お化けであったり、独特の妖怪であったりするのでしょうが、最近では鬼から電話が掛かってくるアプリまであるほどです。

子育てにおいて、このように嘘をついて言う事を聞かせることに賛否両論ありますが、恥ずかしながら我が家もご多分に漏れず、「そんなことしたら鬼を呼んでくるで~」と叱っています。

五人のきょうだいが、みんなそのように言われて育ってきているので、末っ子になると兄や姉からも言われる始末です。こうなってくると、何だか可哀そうになってしまいます。

小学一年生の末娘が、まだ年少の頃です。幼いので、言うことを聞かない時は「鬼に言うよ」と言うと、効果てきめんでした。すぐに泣きそうになりながら、「嫌や、ごめんなさい」と謝ります。

ところがある日、彼女が褒められるような良いことをしたので、「これはとってもええことやから、神様に報告しとくね」と伝えました。すると、「とと、神様に言わんくていいんで。だって、神様は見とるけぇ」と言うではありませんか。

鬼を信じる心も純粋ならば、神様を信じる心もまた純粋なのでした。何だか哲学的な名言を突きつけられた気分で、夫婦で思わず顔を見合わせました。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、三才の子どものような純粋な心を「さんさい心」と教えてくださり、どこまでも真っすぐな信仰姿勢を私たちにご期待くださっているのですが、まさにこれこそ「さんさい心」。

「良い行いをしたら、神様は必ずご覧になっている」と自信満々の娘の反応に、私のほうが「神様をきちんと信じているか」と問いかけられたようでした。

ある先生から教えていただいた、私が大好きな天理教のお話があります。

良い種を蒔けば良い芽が出て、悪い種を蒔けば悪い芽が出る。私たちの人生は、誠に蒔いた種通りの人生です。しかし、人間の心は完璧ではないので、どうしても悪い種も蒔いてしまいます。その時に、それを隠そうと土の中に埋めてしまうと、もっともっと根が張ってしまいます。

ですから、悪い芽が出ないようにするには、それを土から掘り返して腐らせる必要があります。反対に、良い種こそ土から掘り返さないでおく。つまり、みんなに内緒で良い行いをするが如く、そっと土の中に埋めておけば、きちんと良い根が張るんだよ、というお話です。

まさに「神様は見とるけぇ」という算段です。

さて、この話は、教会で行われる子どもが対象の行事でもよくするのですが、子どもたちに「悪い種を土から掘り返す」という意味を分かりやすく伝えるために、それは「ごめんなさい」ということだとお話ししています。

素直に「ごめんなさい」と間違いを認めることが出来れば、たとえ相手が許してくれなくても、立派な反省の態度だと思うのです。「負けるが勝ち」とも言いますが、「ごめんなさい」と言える人が一番強い人だと、私は本気で思っています。

その思いは子どもたちにも伝わっており、我が家できょうだいゲンカが始まり、にっちもさっちもいかなくなると、私は必ず「さぁ、どっちが謝るんかなぁ」とたずねます。

すると、我先にと競い合うように「ごめんね!」という子どもたち。言わされている感が否めませんが、それでも素直に謝れる、負けることが出来るというのは、強いことだと思うのです。

今年度の一学期のある日。小学5年生の長女が帰宅後、「今朝、提出したはずの宿題の音読カードが帰る時に無くなっていて、クラスのみんながず~っと探してくれたんで~」と報告してきました。担任の先生からも、「このまま見つからなかったら新しいものを用意します。本当にすみません」と、連絡帳に保護者宛のメッセージが書かれていました。

ところが、学校に持って行ったはずのそのカードが、部屋の片隅に落ちていたのです。それを発見した長女の表情は、見る見るうちに暗くなっていきました。当然です。学校でクラスのみんなが自分のために探してくれたものが、家にあったのですから。

先生が新しいものを用意してくれると仰っているのだから、このまま黙っておくのも一つの手かも知れません。しかし、神様は見ておられるのです。とても大事なことだと思ったので、夕食後、妻と私と本人でゆっくり話をする時間を持ちました。

恥ずかしさと申し訳なさが絡み合った複雑な心境なのでしょう、彼女はずっと泣いていましたが、私がいつものように種まきの話をし、どうしたら良いかをたずねると、「明日、みんなに謝る」と声を絞り出しました。

親バカかも知れませんが、多感な年頃の女の子です。この時期の「ごめんなさい」は、本当に勇気がいると思うのです。

翌日、自分のことのようにソワソワする私たち夫婦の心配をよそに、笑顔いっぱいの彼女が元気に帰宅しました。

「朝、先生に謝って、給食を食べる前にみんなにも謝ったよ。あと、探してくれたお礼も言ったよ」

偉い!

それは小さな小さな出来事ですが、大きな大きな成長を感じたひと時でした。大丈夫、勇気を振り絞った「ゴメンナサイ」、神様がきっと見てくれているよ。

 


 

神様の眼

 

この世界のすべてのものを創られた神様からすれば、人間をはじめ、あらゆるものはその手の内にあります。逆につくられた私たちの方は、いくら力んでも、背伸びをしてみても、創り主の手の外へ出ることはできません。これを天理教では、「神様の懐住まい」と教えられています。

神様の世界に、神様と共に住まわせていただくこと。その生活を心から楽しむことが、陽気ぐらしの味わいであると言えるでしょう。

「神様は全知全能である」と言われます。神様は私たちの心の内を見抜き見通されて、その上でご守護をくださいます。私たち人間が、神様の手のひらの上で、怒ったり、泣いたり、いがみ合ったりしている姿を、どんなお気持ちでご覧になっているのでしょうか。さぞかし、もどかしい思いを募らせておられるに違いありません。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」直筆による「おふでさき」に、

  このよふをはじめだしたる月日なら
  どんな事でもしらぬ事なし(八 11)

  せかいぢう一れつなるのむねのうち
  月日のほふゑみなうつるなり(八 12)

  それしらすみなにんけんの心とて
  わがみしやんをばかりをもふて(八 13)

とあります。

ここで「月日」と呼ばれる神様は、このお歌によって、

「人間世界を創め出した神のことであるから、どんなことに対しても、知らないということはない。だから、広い世界のどこにいる者のことでも、すべての人間の心は、鏡にものが映るごとく、神の眼にははっきりと見えているのである。そのことを知らずに、とかく人間の心の常として、自分の幸せを求め、自分さえよければそれでいいというような考え方に流れてしまっている。そのようなことではいけない」

と、戒めておられるのです。

大切なのは、何よりまず「どんなことでも知らぬことなし」と仰せくださる神様への絶対の信頼です。そして、自分さえ良ければ他の人はどうなってもいい、というような、我が身勝手の思案から離れることです。

私たちは、ちょっと油断をすると、つい自分勝手で身びいきな考えに傾いてしまうものです。それは、「神様の眼」を忘れてしまうからではないでしょうか。神様の親心あふれる眼を、日々の歩みの中で感じ取りながら、陽気ぐらしへの道のりを進んでいきたいものです。

(終)

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