(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1142回

母の祈り、いつまでも

母は認知症と診断されながらも、自宅療養中の父の世話を懸命にしていた。そんな中、父が肺炎で入院してしまい…。

母の祈り、いつまでも

青森県在住  井筒 悟

 

私の母は、もうすぐ80歳になります。嫁いだ先は一般的な家庭とは違い、多くの住み込みの方が共同で生活する天理教の教会です。当時、教会長だった私の祖母以外にも、何人もの姑さん的な人や長老さんのような人がいて、朝早くから夜遅くまで、身を使い、心を配りながら生きてきました。

年功序列の厳しい封建的な時代でしたので、無理もありませんが、母の苦労が目に浮かんできます。おまけに、結婚した相手は、亭主関白を絵に描いたような夫です。

父は、母のことを一度たりとも名前で呼んだことはありません。多分、照れくさかったのだと思います。用事のある時は、「おーい」と呼びます。母は「はーい」と返事をして、いそいそと向かいます。「夫婦仲良くするためには、妻が夫を立てて通ることが大切」と教えられてきましたから、母からすれば当然のことです。

そんな道中、私を先頭に6人の子どもを授かります。私は子どもながらに、母から学んだことがあります。母は対人関係において、相手に厳しいことを言われても、決して言葉を返しません。苦しい時は多々あったと思います。けれども戦わないのです。

「神様がちょうど良くしてくださる」
とつぶやきながら、いつも「ハイ、わかりました」と言ってはニコニコ笑顔をふりまきます。

私たちきょうだいは、けんかをしたり、相手を責め立てたりした経験があまりないのですが、それは、すべてを受け入れ、喜び、感謝に変えていく母の姿を見て育ったからかもしれません。

そんな母も、最近物忘れがひどくなり、認知症と診断されました。今起きたことはすぐに忘れてしまいます。今日の日付も分からなくなるので、至る所にカレンダーを置いています。

そうした中でも、二度の大きな手術をした父の世話を心を込めてしています。「この人を残しては死なれない、かわいそうで」と、口癖のように言います。

先日、母が、父が眠ったまま起きないと、私の所に血相を変えて走ってきました。部屋へ駆けつけると、父は高熱で意識がありません。重度の肺炎と診断され、即入院となりました。

母は何が起こったのか、訳が分からない様子でした。いつも横に寝ている父が突然いなくなったことで、頭の中が混乱しているようです。

毎日、父に会いたい一心で「病院に連れて行ってくれ」とせがみます。今は新型コロナ感染症の予防のため、面会できないことを伝えますが、なかなか理解できません。

母は、来る日も来る日も教会の神殿にひざまずき、父の快復を神様にお願いしています。部屋に帰ったかと思うと、またすぐ神殿に向かいます。何度も、何度も祈ります。その母の姿を見るたび、子どもとして、父に会わせてやりたいとの思いで胸が痛くなります。

入院から二週間ほどして、父を施設へ転院させたいと病院から連絡がありました。私と妻は、本人をうちに連れて帰りたいと、病院側に強くお願いしました。そう思うのは、住み慣れた我が家で旅立って欲しいと切に願うからです。

そして、子どもや孫たちには、きちんと親の死に向き合って欲しい。お別れする時が、親の思いとつながる時でもあるのですから。もちろん、最期は母のもとで穏やかに過ごして欲しいとの思いもあります。

病院の先生は、私たちの意向を快く承諾してくださいました。しかし、肝心の父が食事を飲み込む力もなくなり、点滴でしか栄養がとれない状態まで衰弱しています。微熱が続き、なかなか退院の許可がいただけません。

家では、父の受け入れに向け、お医者さんや行政の方の指導を受け、ベッドや酸素吸入器などを用意し、介護のための準備を整えました。子どもが親を思う気持ちがあったとしても、自宅で看取ることは、現実的にとても大変なことなのだと気づかされます。

母は、父が本を読むための老眼鏡や虫眼鏡を用意し、退院を心待ちにしています。しかし、父の状態からして、もうそれらを使うことはないでしょう。父が帰ってきた時、母はそれをどんな思いで受け止めるのか…。

そんなある日、ラジオの向こうから、著名な精神科医のお話が流れてきました。人は感謝の思いを持つと、「セロトニン」というホルモンが、また、人とのつながりを大切にすることで「オキシトシン」というホルモンが分泌される。どちらも幸せを感じるホルモンで、脳の暴走を防いでくれている。日々の物ごとの捉え方が、幸せな心の状態を作るという内容でした。

脳科学のお話が、母の生き方とつながります。日々、当たり前なことに感謝できる信仰があり、家族や人とのつながりの中に幸せを感じながら生きている母は、何か不思議な力に守られているように思えてなりません。

そして、母の懸命な祈りが通じました。86歳の誕生日を迎えた父が、二か月ぶりに我が家に帰ってきたのです。点滴での栄養補給や二時間おきの吸引など、新しく覚えることばかり。在宅看護の始まりです。

妻は、父の介護のために自分の入浴時間を短くしようと、髪をバッサリ切りました。長男の嫁は、看護師としての専門的な知識を生かし、可能な限り手伝ってくれる心強い存在となっています。

「神様がちょうど良くしてくださる」

母の信仰信念が、認知症になってもなお、家族の絆を深めてくれています。

 


 

えらい仕事

 

皆さんは、いつどんな用事を頼まれても、喜んで引き受けることができますか? 自分の不得意なことを頼まれたり、気乗りのしないときだってあるでしょう。「こんなことしたくないなあ」「なぜ私がしないといけないの?」と思ったり、口に出してしまうこともあるかもしれませんね。

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、そんな勇めないときの心の治め方を、鴻田忠三郎さんという一人の信仰者を通して教えてくださいました。

忠三郎さんは、若い頃から地域の農業の発展に貢献した人でした。籾種を改良したり、各地から実りの良い種を取り寄せて、村人に配布したりしました。明治十四年には、新潟県の農学校で指導者として勤めています。

そんな忠三郎さんにとっての気掛かりは、娘さんの目の病気でした。症状は悪化するばかりで、いよいよ失明だというところを、教祖からあざやかにおたすけいただき、忠三郎さんは熱心に信仰をし始めます。

当時は教えに対する官憲の取り締まりが厳しく、教祖や信者もたびたび警察署や監獄へ拘留されました。入信間もない忠三郎さんも、明治十七年三月、教祖と共に投獄されました。

その監獄の中で、忠三郎さんは、一生の宝となるお言葉を教祖からいただくことになります。それは掛の者に命じられ、便所掃除をしたときのことでした。

教祖の「鴻田はん、こんな所へ連れて来て、便所のようなむさい所の掃除をさされて、あんたは、どう思うたかえ」という問いかけに、忠三郎さんは「何をさせて頂いても、神様の御用向きを勤めさせて頂くと思えば、実に結構でございます」と答えました。すると教祖は、

「そうそう、どんな辛い事や嫌な事でも、結構と思うてすれば、天に届く理、神様受け取り下さる理は、結構に変えて下さる。なれども、えらい仕事、しんどい仕事を何んぼしても、ああ辛いなあ、ああ嫌やなあ、と、不足不足でしては、天に届く理は不足になるのやで」と、優しくお話しくださいました。(教祖伝逸話篇 144「天に届く理」)

教祖と忠三郎さんの間で交わされたこの会話からは、投獄中の辛さを耐え忍ぶといった悲壮感はうかがえません。むしろ、ほのぼのとした温かさや自然な喜びが伝わってきます。

忠三郎さんは、このときに頂戴した教祖の温かいお言葉を生涯の宝として胸に刻み、信仰の道をまっすぐに歩んだのです。

(終)

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