(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1237回

新潟での出会い

新潟で布教生活の最中、駅前で関西弁を話す男性と出会った。同郷であることが分かり、さらに話を聴くと…。

胸の奥にこの花あるかぎり

「救われた命に喜びを」

 

「憩の家」の医療は、治療や救命だけがゴールではない。最高の医療で救命した方々に、陽気ぐらしに向かっていただけるよう支援することも重要な使命である。

毎年「こどもおぢばがえり」が始まると、ある男性患者さんのことを思い出す。その方は、六十代で急性骨髄性白血病を発症し、緊急入院された。入院直後、重い肺炎を併発し、人工呼吸器を装着することになった。

熱心な若い主治医を中心に、医療チームの懸命な努力の甲斐あって、一カ月後には人工呼吸器を取り外せるまでに回復した。しかし、この間に、すっかり体力が衰え、食事も取れなくなり、点滴注射で栄養を補い、一日中ベッドで寝たきりの生活となってしまった。昼夜が逆転し、夜になると大声で叫び、昼はウトウトするといった日が続いた。

わずかでも元の自分を取り戻してもらいたいと願い、看護師たちはさまざまな働きかけをしていた。昼間はケアをしながら話しかけ、リクライニング機能付きの車椅子に座って過ごす練習も始めた。

ちょうどそのころ、「こどもおぢばがえり」が始まり、病室の外から、元気な鼓笛隊の演奏が聞こえてきた。すると、患者さんが「パレードに行きたい」と呟かれた。付き添っていた奥さんに伺うと、この方は毎年、信者さんの子供たちを連れて「こどもおぢばがえり」の夜のパレード見物に来ていたとのこと。きっと、パレードには特別の思いがあるに違いない。看護師たちは「懸命の治療で、やっとここまで回復された患者さんだから、ぜひとも望みを叶えて差し上げたい」と強く思った。

みんなで主治医に相談をした。

「ええっ! パレード見物ですか?」
と戸惑う主治医に、

「必要な手配や準備は、全部われわれがやります。診療部長に許可を取ってください。このままの状態では、何のためにここまで頑張ってこられたのか……」
と熱い思いを伝えた。

その勢いに押され、主治医も意を決して診療部長のところへ掛け合いに行ってくださった。

部長からは、「もし外で呼吸が止まっても、対応できるように責任を持つこと」という条件付きで許可が下りた。

緊張して、ぎこちなくなってしまった主治医を励まし、万が一に備えて、酸素ボンベのほかに、気管内挿管セットや人工呼吸に使う器材を準備して、リュックに詰めた。

まず、日勤の勤務を終えた看護師数人が場所取りに走った。計画を聞きつけ、夜勤明けや休日の看護師も駆けつけてきた。みんなで手分けし、患者さんの体力が消耗しないよう、安全が守れるよう万全の準備を整えた。時間のロスがないように、車を出す時間も綿密に計画した。現地では車の侵入は禁止されているので、リクライニングの車椅子に移ってもらって移動した。

到着後、奥さんの姿が急に見えなくなったので心配していたら、総勢十一人にもなったスタッフに、アイスクリームを買ってきてくださった。一気に気分がはじけて、みんな笑顔になった。

パレードはすぐに始まった。いつもは車椅子に二十分も乗っていられなかった患者さんが、この日は一時間も座ることができた。出し物が通るたびに手を振りながら、パレードを楽しんでおられた。

状態も悪化することなく、病院に戻った患者さんは、「楽しかった! また行きたい」と話し、その夜から、ぐっすりと眠れるようになった。小康状態が続き、笑顔や会話も増え、奥さんと穏やかな日々を送られた。

その後、男性が亡くなられた折、奥さんから

「あの日、素晴らしいひと時を過ごさせてもらえて、本当にありがたかった」

と感謝の言葉を頂いた。

 


 

新潟での出会い

 滋賀県在住  池戸 剛

 

今から18年前、私は新潟市にある「布教の家」新潟寮で布教生活を送っていました。「布教の家」は、布教を志す者が一年間、仲間と共に寮生活をしながら布教に没頭する場です。現在も北海道から九州まで、全国に男子寮13カ所、女子寮3カ所が設置されています。

私は毎日、「さあ、今日はどんな人と出会えるんだろう」という気持ちで、意気揚々と一軒一軒お家を訪ねていました。インターホンを押し、「天理教の池戸と申します。神様のお話を聞いてください」と言うと、大概は「あー、天理教さん。うちは用事ないです」とお断りを受けます。簡単にお話を聞いて頂けることもなく、また、お話を聞かせてもらえることも、なかなか出来ませんでした。

それでも毎日コツコツ続けていると、だんだんとお話しや悩みを聞かせてくださる方との出会いが生まれ、それが勇みの種となりました。そして、出会った方を自分の家族に置き換えて考えるようになり、「何とかたすかって頂きたい」という気持ちが湧いていきました。

神様が出会わせてくださった方のたすかりを願い、それを励みにさらに布教に歩く。そんな毎日を過ごしていました。

布教生活も7カ月が過ぎた頃のこと。秋も深まり、新潟はだんだんと寒くなってきていました。ある日、私はもう一歩踏み出したい思いで、夕方に新潟駅のバスターミナルの前へ行き、道行く人に神様のお話を聞いて頂こうと、一人で路傍講演をすることにしました。

ところが、やると決めたものの、いざ大勢の人を前にすると、足がガクガクと震えてきました。

「もう、ここまできたら、やるしかない」と、思い切って柏手を四回打ち、「ご通行中の皆さん!」と、大きな声で話し始めました。

すると、周りの人の視線が一気に私の方へ向けられました。中でも、女子高生たちに「あした学校でみんなに見せよ~」と、携帯で動画を撮られたのには参りました。

恥ずかしい思いもありましたが、それから毎日のように続けて一ヶ月ほど経った頃、いつものようにお話しをしている最中、私のすぐ後ろのベンチに座っていた男性の話し声が耳に入ってきました。それは、新潟では滅多に聞かれない関西弁でした。

路傍講演を終えた私は、「失礼ですが今、関西弁でお話しされていませんでしたか?」と尋ねました。すると、「そうですよ~。私ね、関西の出身なんですわ。滋賀県って知ってはります?琵琶湖のある所ですわ」

「えーっ、僕も滋賀出身なんですよ」

「えーっ、そうなんですか」

そんなやり取りから、その男性、Nさんはこれまでの生活や現況を聞かせてくださいました。Nさんは大変苦労されてきたようで、二人で話し込んだあと、現在の住まいであるダンボールハウスへ案内してくださいました。

別れ際にNさんは、「そう言えば、実家の近くに天理教の教会があって、そこへ母が通っていました」と思い出したように言われました。そこで寮へ帰ってその教会を調べ、電話をしてみました。

すると、電話に出られた教会の奥さんが驚きの事実を教えてくださいました。Nさんは17歳で家を飛び出して以来、30年間行方知れずの男性だというのです。当然、家族の方も教会でも必死になって探したのですが、奥さん曰く「もう、あきらめていました」と。

それを聞いた瞬間、鳥肌が立ちました。私は新潟に来てから8カ月間、毎日布教に歩いていましたが、関西出身の方ともほとんど出会いませんでした。ところが不思議にも、滋賀からおよそ600キロも離れた、人口80万人の広い新潟市で、30年も行方知れずの方とめぐり合うことができたのです。

翌日、教会の奥さんとNさんは、私の携帯を通じてお話しをされました。奥さんがNさんに、「よかったら教会へおいで。狭いけど、ダンボールハウスよりはええから」と言うと、Nさんは、「さんざん心配をかけたこんな僕に… ありがとうございます」と涙を流しました。そのやりとりを隣で見ていた私も感激し、新潟駅で人目もはばからず号泣したのでした。

数日後、Nさんと共に、神様が私たち人間を創られた場所であるぢばへ帰ることができました。まさに感激のおぢばがえりであり、二人並んで「別席」という神様のお話を聴かせて頂きました。

翌日、教会の会長さんと奥さんが迎えに来られました。Nさんは別れ際、「池戸さん、本当にありがとうございました」と、涙ながらに力いっぱい握手をしてくださいました。

Nさんを見送りながら、私は今までに味わったことのない感激に胸を打たれ、涙があふれました。それは私にとって、人だすけの喜びを初めて味わった瞬間でした。神様が、Nさんという一人の人をたすけるために私を新潟まで導いてくださり、このような尊い御用にお使いくださったことに、改めてお礼を申し上げました。

Nさんの幸せを祈りつつ、これからも、「にこにこ」「いそいそ」と通らせて頂きたいと思います。

(終)

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