第1398回2026年8月7日配信
波止場の教会
ホームレスの方を教会でお世話していると、勝手に出て行ったり戻ってきたりする人も多い。大教会長様に相談すると…。
波止場の教会
千葉県在住 中臺 眞治
若かりし頃、恩師からかけて頂いた言葉が今も心に残っています。
「教会というのは波止場だからな」
今から22年前、私がおぢばの大学を卒業して間もない頃の話です。当時、大教会で青年づとめをしていたのですが、私に与えられた役割は、ホームレス状態になってしまった方々を受け入れ、お世話取りをすることでした。
色んな方が出たり入ったりするのですが、中にはでたらめなことをして出て行き、また帰ってくるという方もいました。まだ若かった私は、「こうあるべき」という価値観を人に押し付けるタイプであったと思います。
そんなある日、でたらめなことをして出て行った方から「また住む所が無くなってしまって、そちらに戻りたいのですが」と連絡がありました。私は「どうしたらいいかな」と迷いつつ、そのことを当時の大教会長様に相談に行きました。
向かう途中、心の中では「でたらめなことをして出て行った人だから、もう放っておいたらいいんじゃないか」と言ってもらえると期待していました。しかし、実際には思いもかけない言葉が返ってきました。
「教会というのは波止場だからな。行き詰まったら来て、元気になったら出ていく。そしてまた行き詰まったら来て、元気になったら出ていく。それでいいじゃないか」。
その瞬間、その言葉が私の胸にストンと落ちました。いちいち、ああでもない、こうでもないと心に引っ掛けているのは自分だけであって、大教会長様はいい意味で、何一つ心に引っ掛かってはおられないのだなと反省しました。
神様のお言葉に、「どんな事も心に掛けずして、優しい心神の望み。悪気々々どうもならん。何か悠っくり育てる心、道である」(M34.3.7)とあります。
先ほどの大教会長様のお話は、そもそも人が育っていくには時間が掛かるということ。そして、「相手をどうこうする前に、まずは自分の心だよ」と教えて頂いた気がしました。
以来、波止場の教会として22年が経ちました。拠点は自教会へと移りましたが、気が付けばこれまで100人を超える方々と一緒に暮らしてきました。
では、いつも自分の心に矢印を向けられるようになったのかと言えば、いまだにそうはなれていません。相手を責めてしまうことも度々です。
二か月ほど前から認知症の男性をお預かりしています。とても穏やかな方なのですが、おしっこの失敗が多く、そのまま教会中を歩き回ることがあります。時間のある時は「しょうがないな」と思いながら雑巾がけをするのですが、忙しい時にそれをされてしまうと、メラメラした思いと共に、この場では言えないような言葉が浮かんできて、心の中が不足でいっぱいになってしまいます。
このままでは、いつか相手に当たってしまうかもしれない、そんな思いがよぎりました。そこで最近心がけていることがあります。それは、「人間かりもの思うようにならん/\というは、かりものの証拠」(M21.7.28)という神様のお言葉です。
神様のご守護を頂いて、生かされて生きているからこそ働くことも出来る。このお言葉を思い浮かべると、「あー、また自分の力でやっていると思っていた。相手を思い通りにしたいと思っていた。そもそも神様のご守護のおかげでさせて頂いているんだよな」と反省の気持ちが湧いてきます。
そして、この男性のおしっこを拭き取りながら、かしもの・かりものの教えを学ぶ機会を頂いているんだなと、何だか有難く感じるようになっていきました。
これまで色んな方と一緒に暮らしてきましたが、人と向き合うことは自分と向き合うことなのだなと、しみじみ感じています。
今年配られた天理教青年会のポスターには、「目線は、地域、社会、そして世界へ。心の矢印は、人ではなく自分へ」と記されています。あらためて自分の未熟さを自覚しつつ、心がけていきたい言葉です。
そして、教会という波止場が、誰にとっても、いつでも「また帰って来られる場所」であり続けられたら、と思っています。
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