第1311回2024年12月6日配信
彼女に足らなかったもの
母親の愛情を束縛と感じ、家出をした女性。彼女は教会生活の中で、親子の情愛とはどんなものかを知ることに。
彼女に足らなかったもの
大阪府在住 山本 達則
家庭内での感情のぶつかり合いは、古今東西、当たり前にあることです。人間同士の関係が近ければ近いほど、尾を引くことも多いと思います。他人であれば、付き合いをやめるとか、距離を置くとか、日常に支障がない程度に対処できるかも知れませんが、関係が近ければそういう訳にはいきません。時には、悲しい思いや、怒り、悔しさなどで感情のコントロールが難しくなることもあるのではないでしょうか。
長年の母親による愛情を束縛と感じ、家出をしたAさんという女性がいました。音信不通の数年が過ぎた頃、Aさんは母親へ「SOS」の電話をかけました。「お母さん、たすけて」。母親は、「とにかく、どうにかして帰ってきなさい」と伝えました。
Aさんは良からぬ友達にだまされて、大きな借金を抱えてしまい、借金取りに追われていました。相談を受けた私は、その問題が解決するまで、Aさんに教会に住み込んでもらうことにしました。その間、母親と私はAさんの問題解決に奔走しました。母親は娘のために寝る間も惜しんで、あちらこちらと駆けずり回っていました。
一方のAさんは、教会で生活する中で、親が子供にかける「愛情」とはどんなものなのかを客観的に見る機会を得ることになりました。
当時、教会には私の子供が高校生を筆頭に四人と、里子が数人いました。私の妻が娘に「嫌ごと」を言う場面も当然ありました。娘は決まって不機嫌な態度をとります。また、私が父親として息子に「小言」を言う場面もありました。息子も当然、不機嫌な顔をします。
「早く帰ってきなさい」
「宿題しなさい」
「早く寝なさい」
「冷たいものばかり飲んでいたらダメ!」
「好き嫌いしないで何でも食べなさい!」
Aさん自身も母親に言われて経験したであろう光景が、そこにありました。
そんな彼女が一番に思ったのは、「わざわざ子供が嫌がることを言わなければいいのに」ということでした。しかし、そのような場面を繰り返し見ているうちに、Aさんはあることに気づきました。
いつもは親の小言に不機嫌な態度をとる子供たちが、「分かった」「ごめん」と、素直に反省することがあります。その時の私と妻の表情が、ものすごく嬉しそうに見えたというのです。
すると、その嬉しそうな親の姿を見て、子供たちの態度も少しずつ変わってきたと。今度は反対に、子供たちが親に褒められようと、進んでお手伝いをしたり、言われなくても宿題をしたり、進んで嫌いなものを食べたりする場面が多くなったと言います。
そんな様子に、私たち親の小言も減っていったと彼女は感じたようです。私自身、それほど意識していたわけではないのですが、それが私たち親子の様子を客観的に見ることが出来たAさんの実感でした。
そしてAさんは、自分には、親を喜ばせてあげようという気持ちがなかったことに気づいたのです。彼女も幼い頃は、親に褒めてもらいたいという思いで、子供らしい素直な行動をとったこともあるでしょう。しかし、自我に目覚めてからは、親に反抗することしか出来ずに、その結果、家を出るという選択をしてしまったのです。
彼女は教会に来てしばらくして、私に尋ねてきました。
「私は何が間違っていましたか?」
私は、彼女にこう答えました。
「間違っていたんじゃなくて、足らなかっただけだと思うよ」と。
「親に対して、年齢なりに不満は募ってくるものだよ。でも、親の立場になって考えたらどうだろう? わざわざ子供に嫌われたり、嫌がられたりしながらも、小言を言うのは何のため? それは間違いなく子供のためだよね。それを想像する余裕が、少し足らなかったんじゃないかな。
それともう一つ、ここには里子がいるでしょ。この子たちは、親と一緒に生活したくても出来ない子たちなんだ。嫌ごとや小言を言って、心配してくれる親が側にいることも、当たり前ではないよ。親がいてくれることを、もっと喜ばないとね」
私は精いっぱい、彼女に気持ちを伝えました。彼女はそれから間もなく、初めて母親の誕生日にケーキを買って実家に戻りました。
天理教では、神様と人間との関係は、親と子の関係であると教えて頂きます。神様は、私たち子供のことを思えばこそ、日常、様々な事情を見せて下さいます。それは、その人にとって不都合なことであったり、腹立たしいことであったり、悲しいことであったり。
しかし、そのような出来事の中に、神様の大いなる親心を見出すことができれば、それらはすべて「有難いこと」であると、喜んで受け取ることができるのです。
だけど有難い「心の栄養」
最近、大学時代の友人と三十年ぶりに再会しました。高校の校長を五年務め、あと二年で定年退職とのことでした。
「定年退職したらどうするんや」
「悠々自適の生活や。あんたは、いつまでやってるんや」
そう聞き返されたので、「私はまだ若手やで」と答えました。
私は教会長として、そんなに年齢が上のほうではありません。しかし考えてみると、私くらいの歳になって、若手だなどと言っているのは、落語家と天理教の教会長くらいかもしれません。
ある落語家が、こんな話をしていました。
「落語家は定年がないんです。ですから、何十歳になったってできる。だからといって、歳を取らないわけじゃない。目はかすんでくるし、膝が痛くなるし、老化現象は確実にやって来る。最近では、高座で十分しゃべったら、七、八時間寝ないと疲れが取れないんです。それを見かねて、新橋に住んでいる医者の友人が、『これを飲みなさい』と薬をくれました。骨が強くなる薬だというので、素直に一日一錠飲んでいた。しかし、この歳になって飲み始めて、効果が出るのはいつかと考えると、おそらく骨揚げのときです。焼き場で『丈夫な骨だねえ』と褒められてもしょうがないと思って諦めた」
お年寄りには、薬をたくさん飲む人が多いですね。薬だけではなく、サプリメントと呼ばれる栄養補助食品をさらに摂ったりもする。鞄が薬でいっぱいという人もいます。
体はそうやって薬で補っていますが、心はどうでしょう。心の栄養は、いったいどんなサプリメントを摂っているのでしょうか。私は、心にも栄養が必要だと思うのです。そして、心の栄養補給には、教会へ足を運ぶことが一番だと思います。なぜかと言えば、教会ではどんなに歳を取った人も、自分が何かをしてもらう話ではなく、させていただく話を聞くからです。お世話になる話じゃない。お世話をする話なのです。だから教会長も信者さんも、信仰する人は、みな若いのだと思います。
信仰に定年はありません。おつとめも、ひのきしんも、にをいがけも、おたすけも、何歳までという年齢制限はないのです。しかも実行したら実行しただけ、神様からご守護を頂くので、ますます元気になるのです。有難いですね。
私は、その同級生から「もうすぐ定年で悠々自適」と聞いたとき、「羨ましいな」と返事をしました。でも、本当は羨ましくないのです。定年がないほうが、どれほど素晴らしいか。やることがない人生ほど、つまらないものはありません。お道は出直すまで成人できます。共々に、いつまでも青春で、元気で教えを学ぶ者、道を求める者として歩ませていただきましょう。
(終)