(天理教の時間)
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第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1268回

「おかえりなさい」のこども食堂

「おかえり」と出迎え「いってらっしゃい」と送り出す。何気ない光景も「うち」と「外」が充実していればこそ。

「おかえりなさい」のこども食堂

和歌山県在住  岡 定紀

 

我が家には四人の男の子がいます。学校から帰ってくると、こちらが「おかえり」と言う前に、「ただいま」ではなく、逆に「おかえり~」と言っておどけます。そして、外に遊びに行くのです。

親としては宿題を済ませてから行って欲しいのですが、遊びにはやる気持ちはなかなか止められません。結局「いってらっしゃい。気をつけてね」と言って送り出します。

日常の何気ない光景ですが、この「ただいま」「おかえり」「いってらっしゃい」という挨拶は、心安らぐ「家」と、楽しい「外」と、両方が満たされていて成り立つ会話です。もしうちに帰るのが嫌だったり、面白くない職場や学校に行かなければならないとしたら、このような会話は成立しないかもしれません。

私のお預かりする教会では、定期的に「こども食堂」を開催していますが、全国のこども食堂の中には、参加してくる子供たちに「おかえり」と挨拶をする所が多いと聞きます。町中の飲食店でも、時折、入る時に「おかえりなさい」と言われ、お店を出る時に「いってらっしゃい」と声を掛けられる所がありますが、こども食堂はその比ではありません。

最初は違和感を覚えますが、「この場所を我が家だと思ってリラックスして欲しい」との思いが感じられ、食堂の雰囲気もほのぼのとした温かいものになるような気がします。

さて、コロナ禍では「ステイホーム」というスローガンが掲げられました。不要不急の外出は控え、なるべく家に居てくださいという主旨ですが、外に出られず、家にずっと籠った状態が、かえって家庭内の不和を引き起こすケースもあったようです。親がイライラして子供にきつく当たったり、夫婦仲も険悪になる場合があり、ついには「コロナ離婚」という言葉が生まれたほどでした。

私たちには、心安らぐホームとしての「家」が必要ですが、それと同じぐらい、楽しい「外」があることも大切で、程よいバランスが肝心であることをあらためて思った次第です。

天理教では、

  月日にわにんけんはじめかけたのわ
  よふきゆさんがみたいゆへから (「おふでさき」十四 25)

と教えられています。

月日というのは神様のことで、神様がこの世界と人間を造られたのは、人間が陽気に遊山をするのを見て共に楽しみたいからだと教えられます。

遊山とは「物見遊山」という時の遊山ですが、もともとは仏教用語で、修行によって悟りを得た後に、自然を楽しみながら自由に散策する様子を表しています。

これを日常生活に置き換えてみます。仕事はすべてが楽しいわけではありません。時には「なんでこんなつまらない仕事を」と思うこともあるでしょう。その中を、どう工夫していくか。つまらないと感じる仕事でもゲーム感覚で楽しくできれば、まるで好奇心で目がキラキラしている子供のように取り組むことができるかもしれません。

このように工夫することを「修行」だと捉えれば、毎日を遊山のごとく、心穏やかに楽しめるようになるのではないでしょうか。

現代社会は、仕事や勉強のやり過ぎで、何かとストレスを感じることも多いかもしれません。しかし、子供たちが「外」で楽しく遊んで「うち」に帰って来るように、大人たちも外で「遊山」をするかのように楽しさを味わうことができれば、日々の生活そのものが充実してくるでしょう。

そのような「うち」と「そと」のあり方を考え直すきっかけになったとすれば、コロナ禍も決して悪いことばかりではなかったと言えそうです。

天理教では、神様が人間を宿し込まれた場所を「ぢば」として定め、礼拝の対象としています。すなわち「ぢば」は、私たち人類の「ふるさと」ということになるのです。

ゆえに、「ぢば」を取り囲むように建てられた神殿は、世界中の誰をも受け入れるアットホームな場所として、24時間365日、いつでも参拝できるように開かれています。そして、初めて訪れた人に対しても、ふるさとに帰ってきたという意味で、「ようこそ、おかえりなさい」と言って迎えるのです。

「ようこそ」は初めて来たのだから分かるとしても、「おかえりなさい」という言葉は、とても奇妙に聞こえるでしょう。しかし、私たち天理教を信仰する者は、親元へ帰って来られたという意味ですべての人をそのように出迎え、我が家にいるような心の安らぎを感じてもらうべく努めています。そして、神様の教えに沿った、遊山に出掛けるような心の持ち方について、お話をさせて頂きます。

うちの教会で開いている「こども食堂」も、誰でも受け入れるアットホームな場所として、「おかえり」と温かく迎える気持ちと、再び楽しく外へ出られるように、「いってらっしゃい」と元気よく送り出す気持ちを、心掛けたいと思います。

 


 

こうまんのほこり

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、神様の望まれる陽気ぐらしに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。

教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「こうまん」のほこりについて、次のようにお聞かせいただいています。

「こうまんとは、思い上がってうぬぼれ、威張り、富や地位をかさに着て、人を見下し、踏みつけにするような心。また、目上に媚び、弱い物をいじめ、あるいは、頭の良いのを鼻にかけて、人を侮り、知ったかぶりし、人の欠点ばかり探す、これはこうまんのほこりであります。」

自惚れと自信は紙一重とも言えます。多少の自惚れは可愛い気があるとも言え、逆にあまりに自信のなさ過ぎる人は、歯がゆくもあり、気の毒にさえ感じられます。しかし、自惚れも度が過ぎると嫌味になり、鼻につきます。思い上がって出過ぎた言動をとっていれば、やがては人の反発を招くでしょう。

また、富や地位を持つことそれ自体が、こうまんのほこりになるわけではありませんが、それらを利用して人を見下すこと、人を人とも思わないような言動をとれば、もちろんほこりとなります。

そうすると、自分はそれほどお金も持っていないし地位もないから、こうまんのほこりとは無縁だ、と思われるかもしれませんが、決してそうではありません。人の失敗を見て笑ったり、人の欠点を並べ立てて馬鹿にしたりすることは、大なり小なり誰でも覚えがあるのではないでしょうか。

こうまんのほこりについて思案すると、本当の強さや力とは一体どのようなものか、との考えに及びます。一般に力と言えばお金や権力、知力といったものが浮かびますが、結局のところ、神様のお働きを頂けるという「力」に勝るものはありません。

神様のお言葉に、「日々という常という、日々常に誠一つという。誠の心と言えば、一寸には弱いように皆思うなれど、誠より堅き長きものは無い」とあります。

どのような立場や境遇に置かれていても、日々誠の心を尽くすことが、神様のご守護を頂く一番の近道である。この真実に気づけば、思い上がったこうまんのほこりも、徐々に取り払われていくのではないでしょうか。

(終)

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