(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1244回

ゴミ拾いは誰のため?

公園で子どもたちを遊ばせた後の清掃活動。これには、大リーグの大谷選手という素晴らしいお手本がある。

皆、丸い心で

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。

明治16、7年頃のこと。久保小三郎さんが、長男楢治郎さんの眼の病気をたすけて頂いたお礼に、家族を連れてお屋敷へ帰らせて頂きました。

赤衣を召してお座りになっている教祖のお姿に、小三郎さん夫婦が恐縮していると、息子の楢治郎さんは無邪気に辺りを見回し、教祖のお側に置いてあるぶどうに目を留めました。すると教祖は、そのぶどうのひと房を手になされて、

 

「よう帰って来なはったなあ。これを上げましょう。世界は、この葡萄のようになあ、皆、丸い心で、つながり合うて行くのやで。この道は、先永う楽しんで通る道や程に」(教祖伝逸話篇 135 「皆丸い心で」)

 

と仰せられ、そのぶどうの房を楢治郎さんに下さいました。

この短いお言葉の中には、教祖の親心がたくさん詰まっています。

「よう帰って来なはったなあ」というお言葉からは、教祖が、人類のふるさとである「ぢば」へ人々が帰ってくるのを楽しみに待っておられる様子がうかがえます。この時には、楢治郎さんの患いを通じて、どうでも小三郎さんの家族を引き寄せたいという深い思惑があったのです。

次に、「丸い心でつながり合うて行くのやで」とのお言葉について考えてみましょう。

「丸い」とは、かどかどしくなく穏やかで円満である、という意味です。そこからイメージされるのは心が澄み切った状態であり、つまりこの「丸い心」とは、神様の思いに沿った誠真実の心ということです。

そして、「つながり合うて行く」というお言葉は、日常経験する人間同士のつながり以上の、より深いレベルでの「つながり」を意味しています。

それは、次のお歌から理解することができます。

  このよふを初た神の事ならば
  せかい一れつみなわがこなり(四  62)

  せかいぢういちれつわみなきよたいや
  たにんとゆうわさらにないぞや(一三 43)

 

夫婦、親子、きょうだいがつながり合っているばかりでなく、世界中の人間は、神様を等しく親と仰ぐ「いちれつきょうだい」である、ということです。

さらに教祖は、「この道は、先永う楽しんで通る道や程に」と仰せられています。ここで言われる「先永う」とは、単に「長い間」というだけでなく、この信仰が親から子へ、子から孫へと末代まで続くことを仰せられ、「楽しんで通る道」というお言葉によって、何を見ても、何を聞いても、うれしい楽しいという陽気づくめの日々を、いつまでも通るようにと諭されています。

教祖はこの世界の真実を、誰にでも分かるように、ぶどうの房に例えてお諭しくださいました。

私たち人間は、神様の思いに沿った「丸い心」で、お互いがつながり合っていくべき存在である。

この真実に対して心が開かれた時、私たちは神様のご守護によって生かされていることの有難さを実感し、陽気づくめの日々を送ることができるのです。

 


 

ゴミ拾いは誰のため?

 和歌山県在住  岡 定紀

 

教会で、学校帰りの子どもの宿題を見る日を設けています。宿題を見るといっても教えるわけではありません。どうしても分からない所があって尋ねてくれば教えますが、ほとんどの時間は、子どもたち同士で宿題をしている姿を、後ろから見守っているだけです。

それでも子どもたちは、友達と一緒にいることと、後ろで大人が見ていることに程よい緊張感と安心感をおぼえるのか、とてもいい学習の場となっています。皆が自主的に取り組む様子で、分からないところがあっても、まずは友達同士で教え合っています。

宿題が終わると、今度は教会の近くの公園へ遊びに行きます。遊具で遊んだり、鬼ごっこやサッカーなどをしますが、ここでも大人は見守っているだけです。実際のところ、子どもと一緒になって遊ぶ体力もないので、見守ることしかできないといった方が正しいかもしれません。

しかし、ベンチに座って子どもが元気に遊び回るのを見ているだけで、言い知れぬ幸せに包まれます。

さて、ここからが大人の出番になります。一通り遊んだ後、「では、使わせて頂いた公園の掃除をしましょう!」と促します。子どもが掃除用具を手に取り、落ち葉集め、草抜き、ゴミ拾いなどを楽しみながらできるようにもっていきます。全てが順調に進むわけではありませんが、ここが大人の腕の見せ所です。

子どもたちには、公園はみんなのものだから、使わせてもらったお礼に掃除をするという、シンプルな習慣を身につけて欲しいと思っています。掃除の後におやつの時間を設けるなど、「楽しみが待っているよ」といった工夫もしています。

公園にはゴミ箱がないので、おやつを食べて出たごみを教会まで持ち帰るように言います。さすがにゴミ拾いをして、食べたお菓子の袋を捨てるようなことはできません。みんなの場所をきれいに使うことの大切さを伝えられる、いちばんのタイミングです。

ところで現在は、このゴミ拾いの習慣について子どもたちに説明しやすい状況にあります。なぜなら今、メジャーリーグで大活躍する大谷翔平選手の習慣が注目を浴びているからです。

大谷選手は高校時代、野球部の監督から「ゴミは人が落とした運。ゴミを拾うことで運を拾うんだ。そして自分自身にツキを呼ぶ。そういう発想をしなさい」と、運を身につけるための教えを受けたそうです。実際、大谷選手が試合中にゴミを拾ってポケットに入れる姿を、YouTubeなどで見ることもできます。

また、高校一年生の時に書いた目標達成シートを見ると、運を身につけるためにすることとして、「あいさつ」「ゴミ拾い」「部屋そうじ」「審判さんへの態度」「本を読む」「応援される人間になる」「プラス思考」「道具を大切に使う」といったキーワードが並んでいます。

大谷選手は、果たして運を身につけることができたのでしょうか。彼は類まれな幸運の持ち主だと、私は思います。

もちろん、今の大活躍が本人の並々ならぬ努力の賜物であることには間違いありません。しかし、温かい目で見守ってくれる恩師に巡り合い、不可能だと言われたピッチャーとバッターの二刀流に挑戦する環境が整ったこと。そして先のWBCにおいて、決勝ではチームメートで、アメリカ代表キャプテンのトラウト選手と最後に対戦し、三振を奪って優勝を決めるなど、まさにドラマのような展開を呼び起こし、世界中の人々を魅了したのです。これらは、本人の努力だけでは実現できない世界だと言えるでしょう。

ここで言う、ゴミ拾いをすることで身につける「運」については、天理教では「徳」と呼べるかもしれません。お買い得の「得」ではなく、道徳、人徳という表現の「徳」です。

天理教教祖・中山みき様は、ある時、一人の信者さんに、

 

「目に見える徳ほしいか、目に見えん徳ほしいか。どちらやな」と仰せになりました。するとその方は、「形のある物は、失うたり盗られたりしますので、目に見えん徳頂きとうございます」(教祖伝逸話篇 63「目に見えん徳」)

 

と、お答えしたそうです。

ゴミ拾いをする子どもたちに、良い運命が開かれていくように、今後も神様に祈りつつ、見守っていきたいと思います。

(終)

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