(天理教の時間)
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第1278回2024年4月19日配信

東京スカイツリーから、こんにちは ~母と子の絆は永遠です~

吉永先生
吉永 道子

文:吉永 道子

第1230回

アベコベ家出

小6のAちゃんが教会を訪ねてきた。どうやらお母さんとケンカをして、おうちに居づらいみたいだ。

これこそ本当の親や

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」のこのような逸話が残されています。

文久三年、桝井キクさんが39才の時のこと。夫の伊三郎さんが、ふとした風邪から喘息となりました。もともと神信心の好きなキクさんは、近くはもとより、二里三里も離れた詣り所や願い所まで足を運びましたが、夫の喘息は一向によくなりません。

そんな時、隣家の者に勧められて初めてお屋敷へ参り、教祖にお目通りさせて頂きました。教祖は、「待っていた、待っていた」と、可愛い我が子がはるばる帰ってきたのを迎え入れるように、キクさんにやさしい温かなお言葉を掛けられました。

キクさんが、「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」と申し上げると、教祖は、「あんた、あっちこっちとえらい遠廻りをしておいでたんやなあ。おかしいなあ。ここへお出でたら、皆んなおいでになるのに」と仰せられ、やさしくお笑いになりました。

このお言葉を聞いて、キクさんは、「ほんに成る程、これこそ本当の親や」と、何とも言えぬ慕わしさが胸の底まで沁みわたり、強い感激に打たれたのでした。(教祖伝逸話篇 10「えらい遠廻りをして」)

教祖がこの教えを伝え始められた江戸末期、お屋敷周辺には数多くの神社仏閣がありました。キクさんの「今日まで、あっちこっちと、詣り信心をしておりました」という言葉には、当時の庶民の具体的な信仰の様子が表れています。

日本では伝統的に、人々は唯一の絶対的な神の存在を信じるというより、豊かな自然の恵みの中に、さまざまな神や仏の姿を感じながら日常生活を営んできました。

そのような時代、苦しみの渦中にある人々にとって、教祖の親心に満ちたお言葉や御態度は、それまでに全く経験したことのないもので、人生を奥深く見つめる契機となったに違いありません。

多くの神仏にすがってきたキクさんにとっても、従来の拝み祈祷ではない、生きることの根元的な意味を教祖から感じ取ったことでしょう。そして、ようやく「本当の親」に会えた、という感激から、深い信仰へと導かれていったのです。

 


 

アベコベ家出

岡山県在住  山﨑 石根

 

先日、ちょっと説明が難しいアベコベ事件が起きました。ややこしいので、よ~く聞いてください。

ある日の夕方、晩ご飯を食べている時、妻にLINEが届きました。小6の娘の同級生、Aちゃんのお母さんからのLINEでした。

「こんばんは。急なんですけど、さっきお母さんとケンカしたので、教会に少しだけでいいので行きたいんですけど…」とのメッセージに、困った顔の絵文字が添えられていました。

Aちゃんのお母さんは、実の母親と同居しているので、「普段は明るいAちゃんのお母さんでも、自分の親とはケンカするんだなぁ」と思った妻は、「いいよ~」とLINEで返事を送りました。

ところが、程なくして我が家の玄関に立っていたのは、お母さんではなくAちゃんでした。Aちゃんを見つけた私は、頭の中が?マークになり、「あれ?こんな時間にどうしたん?お母さんは一緒じゃないの?」と尋ねたのですが、「お母さんはお風呂に入ってる」と、Aちゃんは答えます。

事態を飲み込むのにしばらく時間がかかりましたが、要するに親子ゲンカをしたのは、Aちゃんのお母さんとおばあちゃんではなく、Aちゃんとお母さんだったのです。Aちゃんは、お母さんがお風呂に入っている隙に、お母さんのスマホでLINEを送り、家出をしてきたのです。

冷静に考えてみると、想定できないことではありませんでした。私の娘もAちゃんもスマホを持っていません。そのため、遊ぶ約束をする時などに、お互いのお母さんのスマホを使って、LINEで連絡を取り合うことが今までもよくあったのです。妻が、AちゃんからのLINEを、Aちゃんのお母さんからのものだと勘違いしたことで、このアベコベ事件が発生したのでした。

Aちゃんの家族は、天理教を信仰している訳ではありませんが、これまで「教会おとまり会」などの、子どもが対象の行事によく参加してくれているので、教会の雰囲気などはよく知っています。もとより、教会とは困った時にこそ活用してもらいたい場所です。

そこでAちゃんのお母さんにも連絡をして、Aちゃんが得心するまで教会で過ごしてもらうことになりました。Aちゃんとは、娘と一緒に教会の夕づとめに参拝をしてもらった後、ゆっくり話しをする時間を持ちました。

親子ゲンカの原因は、きょうだいゲンカだったようです。お母さんがお土産に持って帰ってきたグラタンをお姉ちゃんと取り合いし、大ゲンカになったところをお母さんに叱られ、そこから親子ゲンカになったとのこと。何とも可愛らしいケンカとプチ家出ですが、妻はAちゃんに次のような話をしました。

「人間を創られた神様は、やっぱりどの子も可愛い我が子だから、仲良く分け合ってほしいんよ。そして、そのために話し合い、たすけ合う姿を喜ばれるんよ。それは、親であるAちゃんのお母さんも同じことで、二人の子どもたちがたすけ合う姿のほうが嬉しいんやで」

そして、妻は笑いながら続けます。

「Aちゃんちは二人姉妹やけど、うちは四人で分けるから、それこそグラタンやったら一口ずつやで~」

すると娘がすかさず、「まあ、でも本当は五人きょうだいで、今いちばん上のお兄ちゃんが寮に入っとるけぇ、四人になって分け前が増えたんじゃ」と得意げに言うので、みんなで大笑いになりました。

考えてみると、子どもだけでなく私たち大人も、仲良く分け合うのは難しいものです。神様が人間を創られて以来、人間同士の争いごとは絶え間なく繰り返されてきましたが、今もなお続く戦争や、国と国との紛争は、その土地が自分たちのものであることを主張したり、あるいは自分たちのほうがたくさん所有しようとしたり、奪おう、奪おうとする争いばかりであるように思います。

単純に言ってしまえば、話し合って、分け合って、たすけ合うことが出来ないのが戦争だと思うのです。

神様のお言葉に、

「何事するも話し合い、伝え合いが神の望や」(おさしづ M31.5.9

とあります。また、

「十人寄れば十人の心、日々の処難しい。十人の心一人の心、一つすきやか一つ談じ合い」(おさしづ M23.8.22

とも説かれています。

私たちの身体は神様からの借りものですが、心だけは自由に使うことができます。神様は私たちの意見が異なるのは大前提の上で、談じ合ってほしいと仰っているのです。

もちろん国同士のことになると、話し合えるレベルではないのかも知れません。しかし、私たち人間同士が話し合い、分け合うような関係こそ、神様が喜ぶ姿なのではないかと、Aちゃんと話しながら、ふとそんなことを思い描いたのでした。

Aちゃんをおうちに送り届けた後、夜寝る前に今日あったアベコベ事件を子どもたちに伝えながら、「でも、うちはおやつを分けることでケンカしたことないから偉いと思うよ」と言うと、中学生の息子が「でも、ゲームの順番はいっつもケンカじゃ」とため息まじりにつぶやきました。

「ホンマやなぁ。じゃあ、やっぱり話し合いじゃな!」と私が促すと、そのまま子ども同士で話し合いが始まりました。

もしかすると、話し合った結果よりも、こうして話し合う姿を神様はお喜びくださっているのかも知れません。

(終)

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