第1206回2022年11月26日・27日放送
せっちゃんとの出会い
修養科で出会った90才の〝せっちゃん〟。いつも喜びいっぱいで通る彼女に、どれほどたすけられたことか。
せっちゃんとの出会い
京都府在住 辻 治美
私は今から9年前、平成25年の6月から8月までの三カ月間、「天理教修養科」に入らせて頂きました。修養科のクラスは男女に分かれていて、私のクラスには10代から90代までの30人ほどの女性がおられました。
修養科を志願する理由は様々です。私の場合は、生まれてすぐに「てんかん」の発作で重い障害を持った息子にご守護を頂きたい、そのために神様の元で自分の心を磨きたいという理由でした。クラスには、花嫁修業の一環として来た若い女性や、自身の病気や家族の病気のたすかりを願う方、また家族や職場の人間関係で悩みを持つ方などが集まり、運命を良い方向へ切り替えたいと願い、共に修養に励みました。
私はこの時43歳。四人の子どものうち長男、長女は家に残し、小学三年の次男と障害を持つ二歳の三男を連れて修養科に入りました。次男は天理小学校へ編入し、三男は託児所で預かって頂き、日中は大勢の仲間と共に教えを学びました。
最初は緊張していましたが、クラスの仲間とも次第に打ち解けて色々な話をするようになりました。その中でもクラスの最高齢、90歳のせつ子さんとは特に仲良くなりました。せつ子さんは、クラスのみんなから「せっちゃん」と呼ばれていました。せっちゃんは今回が三回目の修養科で、身近な友人の病気の平癒を願って真夏の天理に来られたのでした。
せっちゃんは足が痛む中を、シルバーカーを押して修養科に通っていました。私が足の痛みが治まるように、「おさづけ」というお祈りをさせて頂きたいと言うと、せっちゃんは喜んでくれて、休み時間におさづけを取り次ぐようになりました。毎日、私の息子のために大勢の方がおさづけを取り次いでくださっていたので、そのご恩を少しでも返せることが、私にとっても喜びでした。
せっちゃんは「ありがたいねー」が口癖で、いつもニコニコ、喜びであふれています。猛暑の中でつい、「暑いな~」「疲れた~」という言葉が出てしまう中でも、せっちゃんからそんな声は聞こえてきません。90歳で若いみんなと同じように動いているので、絶対疲れているはずなのに、不足を漏らすことなく毎日元気に登校し、友人の病気の回復を祈っておられました。
せっちゃんは、お昼ご飯を食べながら、色んなお話を聞かせてくれました。嫁ぎ先で信仰を反対されたこと。そんな中でも親戚に病気の方がいれば、足繁く通って神様のお話をし、おさづけを取り次いだこと。
仕事で作業中に高い所から転落し、命が危ない中を不思議なご守護によってたすけられたこと。他にも、いつも笑顔のせっちゃんからは、想像もできないような苦労の連続で、それでも話の最後は、教祖である「おやさま」の御苦労に思いを馳せ、「教祖のことを思えば本当にありがたい、もったいない」と喜びの言葉で結ぶのでした。
私は、障害のある息子を無事に育てられるか自信がありませんでした。けれど、せっちゃんの話を聞くたびに、苦労の先にはきっと喜びがあるのだと思えるようになり、不安が少しずつ取り払われていきました。
いよいよ修養科を修了する時が来ました。息子は願った以上のご守護を頂き、声を出して笑うようになりました。
せっちゃんは最後のお昼ご飯の時、「辻さんがおさづけを取り次いでくれて、足の痛みが取れて、無事三か月過ごせたよ。これも神様のお蔭だね」とお礼を言ってくれました。それから、じっと私の目を見つめて言いました。
「苦労から逃げたらあかん。逃げたら利子がついて返ってくるよ」
私は自分の心を見透かされているようで、びっくりしました。
「でも、逃げたくなったらどうしよう。自信ないわ」と言うと、「どんな苦労の中も淡々と通ったらいい。喜び見つけて通ったら、いつの間にか苦労が終わって、必ず神様が不思議を見せてくださる。そうしたら迷いがなくなって、どの道を行ったらいいか分かるようになるよ」。
ゆっくり、私の目を見ながら心を込めて話してくれました。まるで神様が語りかけてくれているような感覚になり、私は知らぬ間に涙を流していました。この先の私の人生の苦労を思いやり、道に迷うことなく幸せをつかめるようにと、最後に思いを込めて伝えてくれたのです。
修養科を終えて数年後、せっちゃんの言葉がよみがえる出来事がありました。それは、同居していた主人の母が、ALS・筋萎縮性側索硬化症という難病だと宣告された時でした。
息子の介護に、さらに母の介護が加わることを想像して、大きな不安に飲み込まれそうな時、「苦労から逃げたらあかん」というせっちゃんの言葉が脳裏に浮かびました。そのおかげで「そうや、この苦労をしっかり受け止めよう。少しでも喜びを見つけながら通っていこう」と、心を決めることができたのです。
ダブル介護は母が亡くなるまで四年ほど続きましたが、しんどい時はせっちゃんの言葉を支えにしながら迷いなくやり切ることができ、おかげで母は最期まで苦しむことなく、大好きな自宅で生涯を終えました。
訪問のドクターや看護師さんからは、「こんな感動的な臨終の場面に初めて立ち会いました」と言って頂き、これも神様の不思議なお働きだと、家族みんなで深い感動に包まれながら見送ることができました。
現在、99歳のせっちゃん。先日電話をすると「辻さん?うれしい!会いたいねえ!」と、9年前と変わらない明るい声が返ってきました。
せっちゃんとの出会いに、心から感謝の気持ちが込み上げます。せっちゃんから頂いた言葉を大切にしながら、この素晴らしい信仰の道を歩んでいきたいと思います。
人生の分岐点
天理教教祖・中山みき様「おやさま」をめぐって、こんな逸話が残されています。
文久元年のこと。西田コトさんは歯が激しく痛むので、稲荷さんへ詣ろうと出かけたところ、道で知り合いにバッタリ会い、「庄屋敷へ詣ったら、どんな病気でも皆、救けて下さる」と聞かされ、早速教祖のお屋敷に参らせて頂きました。
教祖は、「よう帰って来たな。待っていたで」と仰せられ、さらに、「一寸身上に知らせた」と神様のお話をお聞かせ下さいました。すると家へ帰る頃には、歯痛はすっきり治まっていました。
ところが、四、五日経つと、今度は目が激しく疼いてきます。そこで再びお屋敷へ参り教祖に伺うと、「身上に知らせたのやで」と仰せくださり、神様のお話を承ると、帰る頃には目の痛みはすっかり消えていました。
それからというもの、コトさんはお屋敷の掃除に熱心に通うようになり、信心を深めていきました。(教祖伝逸話篇 8「一寸身上に」)
教祖の数々の逸話が収録された『教祖伝逸話篇』に触れると、先人の信仰者たちにとっては、教祖との出会いが極めて大きな運命の転換点であったことが感じられます。多くの人々が、教祖との運命的な出会いをきっかけに、「たすかりたい」と願う人生から、「人さまにたすかってもらいたい」と自ら行動する人生へと、生き方を大きく変えていきました。
とは言え、たとえ教祖から「よう帰って来たな。待っていたで」と声を掛けられても、そのお言葉を主体的に受け止め、運命を変える意思を自ら持たなくては、人生の道筋は変わりません。
人生の分岐点に差し掛かった時、次の一歩を踏み出す方向を決めるのは自分自身です。この逸話に登場する西田コトさんの信仰は、自ら進んでお屋敷の掃除に通うことから始まりました。運命を転換する道は、劇的で特別な営みよりは、むしろ今の自分にできる着実な一歩を踏み出すことから始まるのではないでしょうか
(終)