(天理教の時間)
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第1311回2024年12月6日配信

彼女に足らなかったもの

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1201回

ただいま、おかえりが言える地域に

私が小さい頃、近所の公園には紙芝居を見に多くの子どもが集まった。公園は現存するが、当時の活気はない。

ただいま、おかえりが言える地域に

和歌山県在住  岡 定紀

 

前回の放送で、熊本地震の復興支援バザーを行ったところ、地域の方々が喜んで協力してくださり、それが後に、こども食堂を始めるきっかけになったことをお話ししました。参加した子どもたちからの「次はいつするの?」との声に元気をもらい、「楽しみにしてくれているんだから、私も頑張らないと」と、気合いを入れてこの活動を続けています。

私は昭和48年、第二次ベビーブームの真っ只中に生まれた、いわゆる団塊ジュニア世代です。この年の出生数は210万人もあったようですが、それ以降どんどん減っていき、昨年は81万人と、およそ半世紀で4割弱にまで減りました。また、私の住む和歌山県は、すでに3人に1人が65歳以上になり、全国でも特に少子高齢化が進んでいる地域となっています。

私が子どもの頃、もう40年も前になりますが、放課後の公園では大勢の子どもが元気に遊び回っていました。公園には時々、紙芝居のおじちゃんがやって来ました。当時すでに紙芝居が回ってくる公園は珍しかったと思いますが、私はそのおじちゃんを手伝って、紙芝居が始まる前に、拍子木を打って近所を回ったことを覚えています。

拍子木といえば、「火の用心」と声を張り上げ、練り歩く光景が思い浮かびますが、紙芝居の時には「皆さん、こんにちは~。もうすぐ紙芝居が始まりますよ~」という挨拶も兼ねた合図になっていたのです。

すると、その拍子木の音を聞いて、家の中で遊んでいた子どもたちも公園に出てきます。大勢の子どもたちが集まる中には、お年寄りの姿もあり、幼い頃を懐かしむような目で見ておられたものです。

これは私が子どもの頃の楽しかった思い出の一つですが、そのような大人と子どものふれ合いのある地域で育ったのは、とても幸せなことだったと思います。

現在、私には小学生の子どもがいます。私が幼い頃に遊んだ公園は、当時の遊具もそのままに今もあるわけですが、あの時の紙芝居のおじちゃんはいません。

確かに当時の賑わいはありませんが、それでも遊んでいる子どもはいます。そんな時に紙芝居とまではいかなくても、何かを通して大人と子どもがふれあう機会が見られたらいいなあと思います。

しかし一方で、それが難しい世の中になっていることを、以下のエピソードから感じています。

うちの子どもたちが通う小学校からは、保護者宛に時折メールで連絡が入ります。メールは、警報が発令されて休校になったり、何らかの事情で下校時間が早くなった時に送信されてきますが、それ以外に頻繁に入るのが不審者に関する情報です。

市内のどこそこに不審者が現れました。身長は何センチぐらい、黒い服を着ています。気をつけてください。というような内容ですが、これが一週間に一回、多い時には二回も来ると、保護者も物騒な地域だなあと不安になり、子どもを外で遊ばせることに消極的になります。

そしてとうとう、私の知人が不審者に間違われたのです。お昼過ぎに下校している子ども達に「お、もう学校終わったんか。早いなあ、おかえり!」と声を掛けたところ、帽子をかぶりマスクをしていたこともあったのでしょうか、不審者として地域に一斉に連絡されてしまったのです。

もちろん彼は不審者などではなく、後に誤解は解けましたが、こんなことが一度でも起こると、大人はますます子どもたちに声を掛けづらくなると思うのです。

子どもの数が減り、大人の割合が増えているということは、いい方向に考えれば、子ども一人を見守る大人の数が増えたことになります。本来なら、昔より余裕を持って子どもを見守れる状況だと思うのですが、現実はそうなっていない。そんな世の中にもどかしさを感じます。

当時、紙芝居をしてくれたおじちゃんは、60歳を超えていたでしょうか。きっと、大勢の子どもが待ってくれていることに元気をもらい、長い間続けておられたと思うのです。

私は今、こども食堂を通して、子どもたちから元気をもらっています。「ただいま」「おかえり」という会話が自然に聞こえてくるような地域を目指して、この活動を続けていきたいと思います。

 


 

人間の自然的状態

 

天理教教祖・中山みき様「おやさま」によって示されたこの教えによって、神様の存在と世界の根本原理が説き明かされている現在ですが、依然として、それらを知らないままに暮らしている多くの人々がいます。そうなると、果たして人間には神様を知る素質があるのか、という疑問が生じてきます。

この点については、人間がいわゆる自然的状態のままにある間は、神様の存在に目を開くのはきわめて難しいということが、数々のお言葉によって示されています。人間は自分たちのことを優れたものと思っているが、そこには様々な欠陥がひそんでいて、それが神様と人間との間に大きな壁となっていることを教えられます。

まず、人間には欲があります。この欲とは、食欲や睡眠欲など、生きていく上での必然的な欲求ではなく、社会生活をする上での、自分さえ良ければという心や、正当に望み得る限度を超えてまで欲しがる欲求です。

  みれバせかいのこゝろにハ
  よくがまじりてあるほどに(「みかぐらうた」九下り目3)

それから「むごい心」。酷い心とは、自分の利益や立場を守るために、他人を傷つけたり犠牲にしても平気な心です。

  むごいこゝろをうちわすれ
  やさしきこゝろになりてこい(五下り目6)

他にも、「ひとのこゝろといふものハ うたがひぶかいものなるぞ」(六下り目1)と、人間の疑い深い資質を指摘されたり、「むしやうやたらにせきこむな むねのうちよりしあんせよ」(八下り目6)と、せっかちで、すぐに結論を求めたがる性分を戒めておられます。

これ以外にも、あらゆる欠陥が指摘されていて、これが自然的状態における人間だとすると、そこにとどまっている限り、神様と人間との距離は絶望的に遠いと言わなければなりません。

果たして、私たちはこの欠陥を克服できるのか。神様が人間を創られた以上、不可能であるはずはありません。たとえ今の人間がそういう状態に落ち込んでいるとしても、そうあるのが当然ではなく、未来へ向けて克服されていく課題であると捉えるべきでしょう。

そこでその原因を追及すると、多くは心の「ほこり」にたどり着きます。

  よろづよにせかいのところみハたせど
  あしきのものハさらにないぞや(「おふでさき」一 52)

  一れつにあしきとゆうてないけれど
  一寸のほこりがついたゆへなり (一 53)

人間は本来、神様の子どもであるから、「あしきのもの」はない。だが、実際にはほこりがついている。「一寸のほこり」と言われますが、これはなかなか根強いもので、ここからあらゆる欠陥が生じてきます。

これがあるゆえに、心が曇って神様の思いが理解できない。自らの感情のままに流され、神様を信じることができず、人生に迷いが生じてしまうのです。

  せかいぢうをふくくらするそのうちわ
  一れつハみなもやのごとくや ( 六 14)

  にち/\にすむしわかりしむねのうち
  せゑじんしたいみへてくるぞや( 六 15) 

世界の人々の心は、もやがかかったように曇って一寸先も見えていないが、ほこりを払い、心が澄んで成人するにつれ、神様の思いも分かってくる。そうして、神様の思いに添って生きることに喜びを感じるようになる。これが本来のあるべき人間像であり、ここまでは到達可能である、と教えられています。

(終)

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