(天理教の時間)
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第1311回2024年12月6日配信

彼女に足らなかったもの

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1188回

家族みんなでお出迎え

一歳の女の子を一時保護でお預かりすることに。子どもたちが喜んで受け入れてくれる姿が嬉しい。

家族みんなでお出迎え

滋賀県在住  池戸 剛

 

今年の初め、児童相談所から、一歳の女の子を一時保護で預かって欲しいと依頼を受けました。

一時保護は緊急性の高い場合が多く、子どもの生命を確保することが第一の目的とされています。幸い、今回は緊急を要するケースではないとのお話でしたが、現状のままにはできないと判断され、一時保護となったのです。

早速、児相のワーカーさんが教会に来られ、これまでの経緯を聞かせてくださいました。お父さんとお母さんが勇気をもって支援を求めてくださったことや、女の子が元気に保育園に通っていることを聞いて、私たちも安堵しました。

私は、すぐにでも教会に来てもらいたいと思いました。隣りで一緒に話を聞いていた妻の顔を見ると、妻も私と同じ思いでいることを感じたので、「こちらはいつ来て頂いてもいいですよ」とワーカーさんに返事をしました。すると、「そう言って頂けると本当にありがたいです。さっそく持ち帰って話を進めます」ということになりました。

こうした急な依頼も、「あなたたちの教会でお世話を頼むで」という神様からのメッセージだと思って受け止めると、「人だすけの上にお使い頂いてありがたい。精いっぱいさせてもらおう」という気持ちが自然に湧いてきます。

今回、「すぐにでも教会に来てもらいたい」と思ったのは、ある別の事件を耳にしたからです。

それぞれ別の施設で育った兄と妹のきょうだいが、春からお母さんと生活を始めました。ところがお母さんは家を空けがちで、一週間、家に帰って来ないこともありました。夏休みに入り、お兄ちゃんはずっと家にいる幼い妹の世話を一生懸命頑張っていたのですが、限界が来たのでしょう。妹に暴力をふるい、幼い命が失われてしまうという悲しい事件が起こったのです。

「女の子もお兄ちゃんも、苦しかっただろうなあ」

「自分たちは、里親として子どもたちをお預かりしているけれど、教会に住んでいる子のお世話をする、それだけでいいんだろうか」

事件について夫婦で話をしながら、涙が止まりませんでした。私は家族を集め、この悲しい出来事について話をしました。

「亡くなった女の子も、もっとお友達と一緒に遊びたかっただろうし、勉強もしたかっただろうし、みんなと同じように楽しく過ごしたかったと思うよ。こんな悲しい出来事は、もう起きて欲しくない。これからも困っている方に、いつでも教会へ来てもらうから、みんなで仲良くさせてもらおうね」

多感な年頃の子どもたちも、目を赤くして聞いてくれました。こうした出来事を耳にするたびに、「たすけを求めている方の力になりたい」と強く思います。

さて、一時保護でお預かりする女の子が教会へ来てくれる日になりました。事前に聞いていた話では、夜泣きがひどく、食事にも偏りがあり、好きな物しか食べないのでお父さんもお母さんも参っているということでした。

そんなことを知らない我が家の子どもたちは、その日を楽しみにしていました。それとは対照的に、私たち夫婦は、「今いる子どもたちと仲良くできるだろうか?教会に馴染めるだろうか?」と、ドキドキしていました。

夕方、女の子を保育園へ迎えに行くと、やっぱり泣かれてしまいましたが、教会に着くと、子どもたちみんながお出迎え。「かわいい~」と次々に抱っこをしたり、おもちゃを持ってきて遊んだり、「いないいないばぁ」をしたり。特に三歳の末っ子四男は、「ぼく、お兄ちゃんだから」といちばん張り切っています。

初日は少し泣いたものの、楽しそうにしている様子も見られました。夕食も思いの外たくさん食べ、お風呂に入って夜の八時に眠りにつくと、不思議と夜泣きをすることもなく、朝までぐっすり寝てくれました。

日に日に慣れて、その後も夜泣きは全くありませんでした。私は安堵するとともに、こうして新たに教会へ来てくれる子を、みんなが心の真ん中におき、お世話をしてくれる姿を見て、親としての喜びを感じました。

神様は、

 にんけんもこ共かわいであろをがな
 それをふもをてしやんしてくれ(「おふでさき」十四 34)

と仰せられます。

私が親として、子どもたちのたすけ合う姿を愛おしく思うのと同じように、神様も、きっとこの姿をお喜びくださっているに違いない。そんな幸せな思いに包まれた出来事でした。

 


 

てびき

 

日々の生活において、何の目的もなく、どのような方向性も持たない行動には生気が感じられません。やはり、目指す目的に向かってひたむきに取り組む姿は輝いて見えます。

生物学の発想によれば、物事の動きはすべて「向きを持つこと」に従って進むもので、それが失われたところには沈滞があるだけだとされています。

この理論に従って、果たして私たち人間のとるべき方向性はどのようなものかと考えてみます。人間はどこから来て、どこへ行くのか。それが明らかになれば、そこへ向けて思い切った生き方の舵を取ることができます。荒波をかき分け、襲いくる障害にも耐え、ひたすら前に進んで行く。まさに溌溂とした生き方の情景です。

 月日にわにんけんはじめかけたのわ
 よふきゆさんがみたいゆへから(「おふでさき」十四 25)

神様は、このお言葉によって、私たち人間は、陽気ぐらしをするために創られた存在だということを教えてくださいました。すべての人間は、陽気ぐらし実現のための魂を持つ者として、この世に生を享けているのです。

こうして、人生において進むべき方向性を神様が示してくださるにもかかわらず、私たち人間は、時として自らそれを狂わせてしまいます。それが、私たちが幸せを求めているのに、その望みが必ずしも成就しない原因です。

『天理教教典』には、次のように記されています。

「親神は、知らず識らずのうちに危い道にさまよいゆく子供たちを、いじらしと思召され、これに、真実の親を教え、陽気ぐらしの思召を伝えて、人間思案の心得違いを改めさせようと、身上や事情の上に、しるしを見せられる。

  なにゝてもやまいいたみハさらになし
  神のせきこみてびきなるそや(二 7)

  せかいぢうとこがあしきやいたみしよ
  神のみちをせてびきしらすに(二 22)

即ち、いかなる病気も、不時災難も、事情のもつれも、皆、銘々の反省を促される篤い親心のあらわれであり、真の陽気ぐらしへ導かれる慈愛のてびきに外ならぬ」(第六章「てびき」)

我が子が地図も持たずに、自分勝手にやみくもに歩いていこうとする危うさを、神様は「をや」として黙ってみていられないのです。崖っぷちをさまよう子どもたちを、襟首を掴んででも安全な場所へと引き戻そうとします。

私たちの身の周りに起こる病気や災難には、そのような意味があるのです。すなわち、これが神様による「てびき」であり、陽気ぐらしへ向けて私たちの心を入れ替えさせようと、軌道修正を促してくださるのです。

私たちは苦悩がない時には、自分の足元を見つめることなど忘れてしまいます。身を病んではじめて、自分自身を省みるものです。問題が差し迫った時、そこに神様の慈愛の手が差し伸べられていることを信じて、喜びの道を歩むきっかけとしたいものです。

(終)

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