(天理教の時間)
次回の
更新予定

第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1100回

食事指南

料理をするのは好きなのに、子供に食べさせるのはどうも苦手だ。せっかくつくった料理をこぼす姿を見ると…。

 食事指南

奈良県在住  遠藤 正彦

育児をする中で、自分の得意、不得意がよく分かることがあります。私は料理は得意ですが、食べさせるのは苦手です。

元々「男子厨房に入るべからず」といった家訓もなく、テキパキと料理をする父親の姿を見ていたこともあり、料理をするのは当たり前のことでした。大学に進学し、一人暮らしをするようになってからも、毎日とは言わないまでも、できる限り自炊をしていました。

料理は本当に楽しいものです。料理は好きでも、準備や後片付けが苦手という声も聞きますが、品数によって使う鍋やフライパンの種類を考え、どのような順番で調理していけばいいのか、どのタイミングで使ったボウルやざるを洗っていけばいいのかと考えることは、苦痛ではありませんでした。むしろ、自分の思った通りに最後までつくり上げた時の満足感はとても大きなものでした。

最初は焼き加減や味付けに失敗することもありましたが、つくったのは自分です。誰に文句を言うこともありません。
慣れてくると、目分量でもおいしくつくれるようになり、大学時代は週末に好きなラジオをかけ、手元に置いたビールや日本酒を合間に飲みながら、自分好みの食材と味付けでつくった料理を食べるのが、ささやかな贅沢でした。

結婚してからも、共働きの我が家ではお互いに料理をするのが普通で、それは夫婦にとってとても楽しい時間でした。子供が生まれ、離乳食という新たなメニューに挑戦することになった時も、どんなものがつくれるか、どんなものを食べてくれるか、期待する方が勝っていたと思います。
インターネットや雑誌でレシピを調べては、美味しくて栄養のとれるメニューをあれこれつくってみましたが、やはり料理をつくるのは楽しくて、自分の得意分野だと思っていました。

ただ、子供にその料理を食べさせる食事の時間がどうしても苦手だったのです。

当たり前のことですが、子供は最初からきちんと料理を食べることはできません。最初は手づかみで食べ、スプーンが握れるようになるにも時間がかかります。いざスプーンが握れるようになっても、お椀に入れたご飯やおかずをすくって口に入れることが難しいのです。

小さなスプーンからあふれるぐらいご飯を入れてみたり、最初は右手で持っていたのに途中からなぜか左手で持ってみたり、スプーンを口に持って行く途中でよそ見をしてしまい、ご飯やおかずをテーブルのあちこちに飛び散らせてしまったり。

子供なので、最初から上手に食べることができないのは当たり前だと、頭では分かっているのですが、いざ自分がつくった料理が毎日次から次へとこぼれ落ちていくのを見ると、ストレスが溜まっていくのです。

ある日、仕事で疲れていたこともあったのでしょうか、いつものように遊びながら食べる娘に、「そんな風にするんなら、もう食べなくていい!」とキツい調子で言ってしまったのです。突然のことに娘の顔からは笑顔が消え、大粒の涙が流れました。

やってしまった、と思いましたが、後の祭りです。
「ごめんね」と謝っても、娘は泣きやみません。妻にたすけを求め、なだめてもらうことで、ようやく娘の機嫌もよくなり、食事を続けてくれました。

食後、洗い物をする妻に謝りました。
「ごめん。つい言葉がきつくなって」
「まだ一歳になったばかりだからポロポロこぼすのもしょうがないよ。少しずつできるようになっていくから焦らないでね」
「うん。分かってはいるんだけど、毎日同じことの繰り返しみたいで」
「ちゃんと上手になってるよ。だって、前は手づかみだったのが、今はスプーンを持てるようになったのよ」
「そうだね。あとはどうしたら、こぼさずに食べられるようになるかな」

そう言うと、妻はカーペットの隅を指差しました。

「あれは、あなたがおととしのワールドカップで日本代表の初戦を見ながらこぼした跡。あっちは、確かタモさんが宮﨑をぶらぶら歩いて解説しているのを見ながらこぼした跡。それから、こっちは…」
「あー、ごめんごめん。親がきちんとした姿で食べることが一番だね」
「分かっているなら、よろしい」

いつでも妻のほうが一枚、いや二枚も三枚も上の私たち夫婦です。

天理教の教祖・中山みき様は、

「分からん子供が分からんのやない。親の教が届かんのや。親の教が、隅々まで届いたなら、子供の成人が分かるであろ」 (教祖伝逸話篇196「子供の成人」)

と教えてくださいました。
子供が分からなければ、親が分かるように教えていくのがこの道です。一度で分からなければ、二度。二度で分からなければ三度と、繰り返し繰り返し教えていくことで分かるようになり、成人の道を歩んでいくのです。

子供にきちんとした食事をするよう求めるなら、まずは親である自分がその求める姿を見せて教えていくことが大切なのです。私が親の姿を見て自然に料理が好きになったように、今度は私が食事をする喜びを子供に伝えていく番です。

私たち人間の成人を促される上から、神様は私たちが「分からん」ところを、いつでも分かりやすく教えてくださるのです。

 


 
神様からの宿題  
-家族という名の星座-
 (「人間いきいき通信」2002年1月号より)

私の弟は時々、一人で星を眺めに出かけていく。聞けば、冬に観る星が一番きれいに輝いていて好きだそうだ。特に深深と冷え込んだ夜は、空気がピーンと張りつめて、星たちの光り方が違うそうである。

正直、寒い夜にわざわざ寝袋持参でご苦労なことだと思っていたのが、最近、リバイバルで流行った坂本九さんの「見上げてごらん夜の星を」を聴いて妙に感動して以来、私も時たま、そっと夜空を見上げるようになった。

まぁなんと影響されやすい性格かと、苦笑いしながら観る夜の星々は、形や大小、光の強弱など一つひとつに個性があって、確かに見飽きないものである。特に冬の夜空にはたくさんの一等星が現れて、オリオン座などの星座を美しく輝かせている。

それにしても、一見バラバラに見える星々を見えない線でつないで、さそり座や北斗七星など、ロマンチックな名前をつけた人たちは、素晴らしい感性の持ち主に違いないと、あらためて感心してしまう。

以前、シンナーの吸引や家出を繰り返していた高校生に話を聞いたことがある。
彼は「家でも学校でも、俺には居場所がない。誰からも必要になんかされてないし、かえって邪魔だと思われてるよ」と、よく話していた。

当時放映中の学園もののテレビドラマの話題になったとき、ドラマの中で熱血教師が生徒に向かっていつも口にする「一番星になれ!」というセリフに、「そんなに簡単になれたら苦労しないっちゅうの! 俺はハズレ星なんだよ、先生。それか、ただの星クズかもね」と皮肉りながら寂しそうに笑っていた表情が、いまでも心に残っている。

またある子は、両親はじめ周囲の大人たちの期待を一身に背負い、趣味や友達付き合いも一切犠牲にして勉強に没頭し、一流校に合格したにもかかわらず、不登校と引きこもりの状態になってしまった。

「いつも自分は、いい子でピカピカに光っていなくちゃいけなかった。でも、もう疲れちゃったんです。みんなの期待が重くて苦しい」

「いまは自分の生きてきた意味も、生きている意味も、生きていく意味も分からない。学校に行く行かないの問題じゃないと言っても、誰も分かってくれない。僕の言うことが、まるで宇宙人の言葉のように、みんなが不思議そうな顔をする。それがたまらないんです」

その子の深く傷ついた心が癒やされ、立ち直っていくまでには、長くつらい時間が必要だった。

キラキラ輝く「一等星」のような子でも、自らを「ハズレ星」と名づけて輝きをなくしてしまっている子でも、共に危険なのは、周囲の誰もが気づかないうちに、「自分のことなど誰一人分かってくれない」という孤独感が、その子の内面で徐々に力を増しているときだ。
人が生きていくうえで常に必要なエネルギーは、誰かと自分はしっかりつながっている、いつも見守られているという、心の一番底にある信頼感や安心感なのである。

一つひとつの家族は星座に似ている。たとえ親子、夫婦、兄弟といっても、みな人間としての個性や心の使い方は別々だ。その一見バラバラの個性がつながり合って一つの家族を形作るところに、大きな深い意味がある。

一つの星だけに気を取られずに全体を見つめることで、星座としてのつながりが浮かんで見えてくるように、時には自分の家族も広い視野から眺めてみることが大切だ。

家族の一人ひとりが、互いを結ぶ見えない線を心で感じ取れなくなったとき、その大切な「絆」の存在を強めるべく、神様の思いが何らかの問題としてその家族に現れるのではないかと、最近つくづく感じている。

(終)

天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

おすすめのおはなし