(天理教の時間)
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第1276回2024年4月5日配信

人生最大のラッキー

目黒和加子先生
目黒 和加子

文:目黒 和加子

第1082回

お変わりありませんか

後期高齢者の仲間入りをした今、単調に思える穏やかな日々、「変わりのない」日常の暮らしが実に有り難い。 &nbs…

お変わりありませんか

奈良県在住・医師  友永 轟

3月の末頃、いつものように天理教本部に参拝に行きました。
神殿の前庭で男の子が大声で両親に何か呼びかけています。手前では小さい子がよちよち歩きをしていて、お母さんが背中を支えて歩いています。その向こうを白いコートを着たご婦人が、背をかがめながらゆっくり歩いて来られます。前の方からはマスクをした若い男女が近づいてきました。私も実はマスクをしています。  
遠くに目を移すと桜がどこも満開で、大きな枝垂れ桜の花景色が目にいっぱい飛び込んできました。久しぶりの明るい日差しに皆がホッとしていて、気持ちの良い空気が広がっています。いつもと変わらぬ幸せな休日の風景です。
ただマスク姿が目立っていて、コロナパンデミックへの恐れが頭をよぎりました。

ところで、長年診療所で患者さんを診察していると、最初のあいさつ代わりに「お変わりありませんか」と聞くことがあります。もちろんこれは、具合は相変わらず良くなりませんね、という意味ではありません。  
医療は急性期と慢性期によって対処の仕方が変わります。急な症状の悪化で病院に運ばれ、緊急に治療を行うのが急性期医療です。逆に慢性疾患、例えば高血圧や糖尿病の患者さんは毎月のように病院にかかり、薬と気長に付き合いながら日常の生活を続けています。生活と治療との両立がほぼ一生続くことになり、この場合は「変わりのない」ことこそが安心感を生みます。

2年前に私の妻が心筋梗塞を患いました。夏のある朝、食事を用意してくれた後、食べている息子と私の前で突然「胸が痛い」と言ってソファーに倒れ込んだのです。私は心筋梗塞だと判断し、すぐに天理よろづ相談所病院に救急受診の連絡を入れました。  
心筋梗塞の場合、専門のチームが24時間待機してくれています。特にその日は朝7時過ぎで病院は開いていないにもかかわらず、ちょうど循環器内科の専門医が集まり、勉強会が行われていたのです。
部長さんは国内有数の名医であり、私は医師の息子に付き添いを頼み、安心して妻を救急車に乗せることができました。幸い一時間以内に処置を受け、治療は順調に進み、現在も後遺症なく元気に過ごしています。

妻がこんな病気になるとは全く想像もしていませんでした。幸い何事もなく順調に治療が進み、元気になってくれました。何も起きない方が良いのですが、起きてしまえば大難が小難に、あるいは無難に治まることが何といっても有り難いことです。発症した日時と言い、待ち受けてくれたお医者さんと言い、偶然の連鎖で対処していただいたことに心から感謝しております。

こんな出来事がありますと、変わりのない日々が続いている現在を本当に有り難く思います。ましてや近年頻繁に発生している地震や台風、このたびのウイルス感染などで突然日常の暮らしを奪われてしまう多くの人々のことを考えると、変わらない日々の暮らしの有り難さが身に沁みてきます。  
かつては仕事をこなすだけの、全く変化のない日常が退屈で嫌になることもありました。私は最近になって大いにこれを反省しています。後期高齢者の仲間入りをした今だからこそ、代わり映えのしない一見単調に思える穏やかな一日々々を、もっと喜んで生きなければならないと心に誓っているところです。

この度の新型コロナウイルスに関しては、特に重症患者さんの治療に当たっている医療者の皆さんは、言葉では言えないほどの苦痛や恐怖に耐えながら尽力しておられます。本当に頭が下がる思いで、深く感謝申し上げたいと思います。 私たちの診療所のスタッフも、感染の恐怖を最大限の予防策で何とか乗り越えようと頑張ってくれています。一日も早く元通りの穏やかな日常がおとずれるよう、神様に祈る日々です。

「お変わりありませんか」。
考えてみれば良い言葉だと思います。医者が患者さんに言う場合、まったく健やかというわけではないのですが、そこには一病息災という意味も含まれています。医者の願いであり、患者さんの願いです。 少しずつですが、私にも人生の終わりが近づいてきていると感じるようになりました。いつ突然の災いがやってくるかは分かりませんが、それまでは心安らかに幸せな気持ちで毎日を暮らせれば有り難いと思います。  
それには常に変わらぬ信頼できる拠り所がなくてはなりません。私はそれこそが信仰だと思っています。どんな時も、どんな状況でも心を支えてくれる柱が信仰であり、その柱さえあれば、何とか生き通せると思うのです。
「お変わりありませんか」と自分の心に問いかけて、「神様、あなたがいるから大丈夫。変わりなく暮らしています」と答えることができれば、きっと幸せな人生になることでしょう。

 


 
神様からの宿題
   心の絆を強めるために
 (「人間いきいき通信」2000年10月号より)

 子供たちとプロ野球観戦に行ったときのこと。応援するチームにスタンドのあちこちから、「気合を入れろ!」「やる気を出せ!」と威勢のいい声が上がる。結果としてひいきの投手が打ち込まれたり、打者が凡退したりすると、「気合が足りないぞ!」と、可愛さ余っての野次が飛び交う。  
早い話、「結果良ければすべて良し」の世界なのだが、同じことが家庭の中でもよく見られる。たとえば、子供の勉強やスポーツなどに、親が熱心に手出し口出しをして、それこそ「気合」が入っている家がある。しかし、こんなところに限って案外、当の子供は疲れて気合が抜けた顔をしていることが多い。なぜなら、結果の如何に心が追い詰められているからである。

「気合が入る」ということは、言い換えれば「そのことに集中する」ことだ。ところが周囲の気合が強すぎると、当人に余計な緊張を強いることになりやすい。集中力はその人の実力だけでなく、隠れた力をも引き出すことがあるが、過度の緊張は普段の力まで出せなくしてしまう。
この「集中」と「緊張」の違いは、物事に対する想像力によるのではないだろうか。たとえば「この試験に落ちたらどうしよう」「ここで三振したら、みんなに怒られるだろうなぁ」と思うか、「よぉーし、この試験のために頑張ってきたんだから精いっぱいやるぞ!」「ここでヒットを打ったら気持ちいいだろうな。一発狙うぞ!」と思うかで、その子の表情や態度はまったく違ったものになるだろう。

同じ状況のなかで、先を案じる心を使うか、それとも先を楽しむ心を使うかは、それぞれの自由にまかされている。しかし、気をつけねばならないのは、周囲の人間の生き方や考え方が、その人の心の使い方に大きく影響しやすいということである。
家族や周囲が、時にはケンカや失敗があっても、明るく陽気に語り合い支え合う雰囲気を持っているか、それとも愚痴や不足を言い合い、暗くて陰気な会話ばかりしているか。この違いが人の成長とその方向を決めていく場合も多い。
最近は夢のない子供が増えた、と大人は嘆くが、子供たちは決して夢をなくしてしまったのではない。自分のことしか考えなかったり、したり顔で説教ばかりする大人が増え、子供と夢の話を共有して、心の持つ力を一緒に膨らませてくれる大人の絶対数が減っているのである。

いまの社会の一番の問題は、人と人との心の絆の弱まりにある。家族も含めた人間関係に大きな歪みが出ていることは、昨今のさまざまな事件が証明している。若者がよく口にする「キレる」という言葉は、心の絆の切断を意味しているように思えてならない。子供たちの心の絆はいろいろな要因によって傷み、切れやすくなっているのだ。
この絆の修復には、時間はかかるが、まず一対一の関係のなかで、じっくりと相手の言葉に耳を傾け、相手の思いを感じ取る練習を積み重ねていくことが大切だ。相手の言葉の先取りをして得々としたり、話を漫然と「聞く」のではなく、心を集中して相手の話を「聴く」ことだ。

「うちの子はちっとも自分のことを話さない」「何を考えているのか、さっぱり分からない」と相談に来られる親御さんが多いが、実際にその子としばらく付き合ってみると、魅力的で面白い話をたくさんしてくれるようになるから不思議である。  
何も言わない子のそばには、必ずしゃべりすぎる人がいる。その子の心の内側に広がる世界にもっと耳を傾け、表現しようとしていることを邪魔しないことである。

人の出会いは、すべて神様のお計らい。目には見えないが互いの間にある絆を、しっかり見つけて強めていくことが大切だ。そのときにも、強い集中力と豊かな想像力は、心の道具として必要不可欠なものなのである。

(終)

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