(ラジオ天理教の時間)
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第1216回2023年2月4日・5日

食べ物を通して感じること

岡先生(掲載)
岡 定紀

文:岡 定紀

第1081回

20年後に会いましょう

ダウン症の子を産み、ふさぎこむ若い母親。「人生でいちばん辛かったことは?」と尋ねられた私は、思いをぶつけた。

20年後に会いましょう

助産師 目黒和加子

「赤ちゃん、ダウン症じゃないですか?」 今から12年前。私の勤務する産科医院で男の子が産まれました。産声は弱々しく、「めえ~めえ~」と、まるでヤギが泣いているよう。その声を聞くや否や、産婦の山口さんが発した言葉が「赤ちゃん、ダウン症じゃないですか?」だったのです。
産まれた赤ちゃんは筋肉の緊張が弱く、手足はだら~んとして首の後ろが盛り上がっています。吊り上がった目尻、低い耳の位置、猿線と言われる手相など、外見上、ダウン症の特徴がすべて揃っています。

取り上げた助産師と、そばにいた医師は、顔を見合わせたまま言葉が出ません。
「ダウン症に間違いないと思うけど、産婦さんは赤ちゃんを見ていないのに、どうして分かったんだろう?」
しかし、その理由を聞いている暇はありません。赤ちゃんはチアノーゼを起こし、全身が紫色。心臓病も合併しているようです。
担当の医師は、「ダウン症かどうかは染色体検査をしないと正確には分かりませんが、見える範囲で言えばその可能性があります。それより、酸素を身体に取り込めず、全身がチアノーゼになっています。すぐに新生児集中治療室のある病院に搬送しなければ、命が危ない状態です」と山口さんに伝え、すぐに赤ちゃんの蘇生処置を始めました。
救急車が到着すると、医師とご主人さんが付き添って、バタバタと大学病院へ搬送されていきました。

その日、私は夕方5時からの当直勤務。申し送りで、取り上げた助産師から分娩室での様子を聞き、山口さんの病室へ向かいました。
「夜勤助産師の目黒です。よろしくお願いします」。
山口さんは私のあいさつに反応せず、暗い表情で一点を見つめて座っています。夕食は手つかずのまま、水すら口にしていません。まるでマネキン人形がベッドに座っているみたい…。その様子に、「一人にしたら危ない、何をするか分からない」と感じました。
その夜は他にお産もなく、院内は落ち着いていたので、もう一人の夜勤スタッフにベビー室を任せて、私は山口さんのそばにいることにしました。

日付が変わる真夜中、無表情の山口さんが「助産師さんの人生でいちばん辛かったことは何ですか?」と尋ねてきました。
「32歳でナースになってこれからという時に、鼻の一番奥、目の裏側にある蝶形骨洞に腫瘍ができてね。緊急で手術しないと視神経がやられて失明するって言われて、手術したのよ。けど炎症がひどくて、脳と鼻を隔てる分厚い骨が溶けて、蝶形骨洞から内視鏡のライトを照らすと、脳が透けて見えるぐらい骨がペラペラで。退院する時に、お医者さんから『あなたは風邪をひいて副鼻腔炎になったら、すぐに脳炎を起こして命に関わることになります。お気の毒ですが』って言われてね。その時がいちばん辛かったかな」
「その骨は今もペラペラのままなんですか?」
「そうよ」
「助産師さんの仕事、してていいんですか? 風邪をひいた妊婦さんも来るでしょう。風邪がうつって副鼻腔炎になることもあるんじゃないですか?」

こちらに顔を向けた山口さんに、私は言いました。
「命に関わる病気になって、このまま死んでしまったら何を後悔するかなあって真剣に考えたの。看護学生の時、実習で分娩に立ち会って、『お産って凄い! 赤ちゃんを取り上げる助産師さんって凄い!』って魂が震えたことを思い出したのよ。助産師学校は倍率が10倍から15倍の狭き門。私には無理やと諦めてたけど、『このまま人生が終わってなるものか。助産師にならんと死なれへん』と思い直して猛勉強して助産師になったんよ。
それから何度も風邪をひいて、副鼻腔炎にもなって、入退院を繰り返して今ここにいるの。お産に向き合っている時だけが、自分のことを心配しないで済む時間なの。毎回この分娩介助が最後になるかもしれないと覚悟して、赤ちゃんを取り上げてるのよ」

私の話を真剣に聞いていた山口さんは、
「今回の妊娠中、胎動が長男の時と明らかに違ったんです。ぐにゃぐにゃしてて筋肉に力がない感じで。だからダウン症かもしれないと思ってました」と言うと、堰を切ったようにワーッと泣き出しました。

山口さんは結婚するまで保育士をしていて、ダウン症の子を保育した経験があり、全身の筋力が弱いことを知っていたのです。
泣いて泣いて、泣き倒す山口さんの肩を抱いて、数時間経った頃、山口さんは私の手を取って、
「目黒さんのお話を聞いて、真っ暗闇の私の心にろうそくのような小さな明かりが灯りました。私が今経験している現実が、この先誰かの灯(ともしび)になることを信じようと思います」と、噛みしめるように言いました。

そして、山口さんと私は、ひとつの約束をしました。
「山口さん、20年後に会いましょう。この医院がなくなって更地になっていたとしても、この場所で会いましょう」。
なぜ20年後に決めたのか覚えていませんが、それまでお互いに頑張ろうと誓い合いました。

それから3年後、山口さんは仲間を作り、市長さん宛に手紙を書き、役所に働きかけて、『ダウン症児と家族の会』を立ち上げたのです。そのパンフレットには次のように書かれています。
「この地域には、ダウン症の乳幼児のための医療や保育に関する相談機関や窓口がありませんでした。ダウン症の子供を持つ数人の母親同士がお互いに相談したり、子供の成長を喜び合ったり、発達を促す体操をしたりするようになり、その集まりをもとに『ダウン症児と家族の会』を立ち上げたのです。
現在は定期的に会合し、この地区のダウン症児育成のための情報交換や相互のたすけ合いを活動の中心にしています。特にダウン症の子供を産んで間もないお母さんの不安を軽減することに優先順位を置き、活動しています」。

私の勤める産婦人科医院では、ダウン症の赤ちゃんが産まれると、ご両親にこの会の存在を伝え、希望する場合は山口さんに連絡します。すると山口さんはすぐに飛んで来て、不安だらけのお母さんに寄り添ってくれます。
あの時、真っ暗闇の中で絶望していた彼女が、誰かの心に明かりを灯してくれる存在になっています。 約束の日まで、あと8年。その時は、ギューッとハグハグして、20年の健闘を称え合おうね。

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