(天理教の時間)
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第1280回2024年5月3日配信

そこにある幸せ

山本達則先生 IMG_1557
山本 達則

文:山本 達則

第1080回

特別な春

この春、次男が高校へ進学した。ウイルス禍で当たり前のことが出来ない状況の中、特別な巣立ちの春となった。

特別な春

京都府在住 辻 治美

わが家の次男はこの冬、中学三年の受験生として、憧れの高校を目指して勉強に集中していました。中学で吹奏楽部に入って音楽が大好きになり、高校でも吹奏楽を続けたいと、他府県にある強豪校を志望していました。

二月に受験を迎え無事合格し、卒業するまで思いっ切り楽しい時間を過ごそうと思っていた矢先、新型コロナウイルスの影響で様々な学校行事が中止となりました。卒業遠足や吹奏楽部としての最後の演奏会など、毎年卒業生が楽しみにしていた行事がなくなり、卒業式さえ危ぶまれる状況になっていきました。

次男をはじめ卒業生のことを思うと、何とか卒業式だけは中止にならないでほしいと願うばかりでしたが、直前に予定通り行われるというお知らせのプリントが届き、ホッとしました。

当日は雲一つない素晴らしい晴天に恵まれ、神様がお祝いして下さっているような暖かな日となり、主人とマスクを着け、喜び勇んで式に参列しました。

式は卒業生と保護者のみの参加で、隣の席との間隔を空け、時間を短縮して行われました。いつもとは違う状況で門出を迎える生徒たちのために、先生方は話し合いを重ねてこられたのでしょう、心を込めて準備してくださったことが伝わる温かい雰囲気の卒業式でした。胸を張って退場していく卒業生たちの姿を見ると、嬉しさと有難さが込み上げてきて、先生方への感謝の思いでいっぱいになりました。

その日家に帰り、撮影した写真をテレビに映して、一緒に暮らす主人の母に見てもらいました。義母(はは)は進行性の難病を患い、車椅子の生活で声を出すことも出来ませんが、「良かったなあ」と笑顔で口を動かしながら、孫の晴れ姿を見つめていました。

義母は顔にはあまり出しませんが、動けなくなることへの怖さや、声を出すことの出来ない辛さを抱え、苦しんでいるのではないかと感じる時があります。何とか心穏やかに過ごしてほしいと、家族みんなでお世話をする毎日ですが、その中でもお笑い好きの次男は、面白いことを言ったり、変顔やものまねをして、義母をよく笑わせています。

「おばあちゃん、だいじょうぶか?」といつもさり気なく声を掛け、車椅子に乗る時やベッドに移る時など、力が必要な介護をいやな顔をせず手伝ってくれる次男。そんな優しい孫の卒業式が無事行われ、義母も心から喜んでいる様子でした。

卒業式の次は入学式が待っています。今年は中止する学校や延期する学校も多く、ぎりぎりまで変更が予想されましたが、次男の入学する高校は予定通りの日程で行われることになりました。

学生寮に入るための荷物を車に積み込み、家族に見送られ次男と私たち夫婦は寮へと車を走らせました。 道中、車から見える景色は、世界中から流れるコロナウイルスのニュースを忘れさせてくれるほどの美しさでした。道路の脇で懸命に黄色い花を咲かせる菜の花や、鮮やかなピンクの花びらをまとい、今まさに咲き誇っている満開の桜並木が、引きこもっていた今年の春の生活に生き生きとした命の輝きを与えてくれました。何があっても変わらずに生き続ける自然のたくましさを感じずにはいられませんでした。

無事、寮に到着し、荷物を運び終えた時、「友達、できるかな…」とつぶやく次男の言葉に、親元を離れる寂しさと、これから始まる新しい生活への不安と期待が入り混じる気持ちを感じ、少し切なくなりましたが、翌日の入学式は、そんな心配を吹き飛ばすような、素晴らしいお天気に恵まれました。

入り口にはたくさんの消毒液が置かれ、会場では席の間隔を空け、窓を開けて換気するなど、ここでも出来る限りの安全対策がされていました。

校長先生は、新入生へのお祝いの言葉の中で、「この先は楽しいことばかりではなく、勉強や部活、また人間関係などで壁にぶつかったり、思うようにいかないことがあります。そんな時は何かのせいにしたり人のせいにしたりせず、自分の言動はこれで良かったのだろうかと、まず自分の心に矢印を向けてみてください」と話されました。

上手くいかない時、私は自分のことを棚に上げてつい何かのせいにしてしまいます。まず自分の心に矢印を向けるということは、大人にとっても大事なことだと心にガツンと残りました。

さらに校長先生は、「当たり前のことが当たり前に出来る。当たり前に日常を過ごせるその陰に、多くの方の支えがあることに気づいてください。そして、そのことに感謝することを忘れないでください」とお話しくださいました。

今は、当たり前だと思っていたことがそうではないとみんなが感じ、今までに経験したことのない日々が続いてストレスや不満が積もっている状況です。当たり前に出来ることの陰に多くの支えがあることに気づき、そのことへの感謝を忘れずにという校長先生の言葉は、あの場にいた人たちの心に深く響いたと思います。

次男が巣立っていった今年の春は、いま生かされている幸せに感謝をさせてもらえる特別な春であり、一生忘れられない春になることでしょう。

 


 
「ほしい」のほこり

天理教教祖・中山みき様「おやさま」は、私たち人間の間違った心遣い、神様の思召しに沿わない自分中心の心遣いを「ほこり」にたとえてお諭しくださいました。

教祖は、ほこりの心遣いを掃除する手がかりとして、「おしい・ほしい・にくい・かわい・うらみ・はらだち・よく・こうまん」の八つを教えられていますが、そのうちの「ほしい」のほこりについて、次のようにお聞かせいただいています。
「ほしいとは、心も尽くさず、身も働かずして、金銭を欲しがり、不相応に良き物を着たがり、食べたがり、また、あるが上にも欲しがるような心。何事もたんのうの心を治めるのが肝心であります」。

さて、ほしいという言葉を「欲求」という言葉に置き換えると、大まかに生理的欲求と社会的欲求の二つに分けられます。 生理的欲求とは、人間が生きていく上で基本的に必要なもので、代表的なものには、食欲や睡眠欲があります。ただ、必要だからといって際限がなくてもいいわけではなく、腹八分という言葉があるように、ほどほどに、適度におさめることが大切です。

一方の社会的欲求とは、集団に属したい、仲間が欲しいといった欲求です。他者から認められたい、尊敬されたいという気持ちも含まれます。これらは他者を意識した、人と人との関係において生じる情緒的な欲求であり、これがいい方向に向けば、努力や向上心につながることもあるでしょう。

このような基本的な欲求は、多かれ少なかれ誰しも芽生えるものですが、度を越せば「ほしい」のほこりとなってしまいます。そこで教祖は「たんのうの心を治める」ことが大切だと教えられますが、そのためにはどう心がければいいのでしょうか。

人間というものは、どんなことでも喜べる気持ちにはそうそうなれませんが、せめて不足に思わない心を意識することはできるでしょう。不足に思えば、何が起きても、ただ不足の種を積み重ねるだけです。しかし、たとえどんな状況であっても、その中から満足を見つけ出すことができれば、心も満たされるといった好循環になるのです。不足に思うか満足するか、心は一つ、当人の思い方次第です。

自分の目の前に現れてくる出来事を〝神様からのメッセージ〟と受け止め、その中に満足の種を見出す心を育てていくことが必要なのです。そして、さらに一歩進んで、相手がほこりを積まないように、相手に満足してもらえる心配りができるようになれば、これはもう、陽気ぐらしに一歩近づいたと言ってもよいのではないでしょうか。

人間はお互いに影響し合う関係、いわばお互いさまの関係です。相手の変化にとらわれるのではなく、まずは自分自身から良好な関係をつくるように働きかけていけば、欲に左右されない生き方ができるのではないでしょうか。

(終)

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