(天理教の時間)
次回の
更新予定

第1279回2024年4月26日配信

欲しい愛情のかたち

宇田まゆみ
宇田 まゆみ

文:宇田 まゆみ

第1079回

あなたが私にくれたもの

一歳の娘あてに、両親や親戚からたくさんのプレゼントが届く。うれしい反面、少々持て余し気味なのも事実で…。

あなたが私にくれたもの

奈良県在住  遠藤 正彦

最近、私が小さかった頃には、それほど周知されていなかった様々なイベントが全国で行われるようになっています。 お正月や雛祭り、お盆などは昔から変わらず続いている行事ですが、10歳のお祝いをする「二分の一成人式」や、二月の節分で恵方巻きを食べる習慣、さらにはハロウィンでの仮装行列など、いつの間に全国的なイベントになったのか、わからないものがたくさんあります。

いつの時代もわからないことは多いのですが、子供を授かったことでわかったことがあります。それは、子供に関するイベントが何と多いか、ということです。 伝統的なお七夜、お宮参り、初節句をはじめ、お食い初めや七五三もあります。ここに誕生日やこどもの日、さらに今や日本の社会で一般化したバレンタインデーやクリスマスも加わります。保育園では、一月七日に七草粥を食べ、二月三日の節分では豆まきをし、七月七日には七夕祭り、九月頃には十五夜、年末にはお餅つきをしています。

伝統行事にふれることで、その国の文化や習慣を学ぶことはとても大切なことです。元々どのような目的で行事が行われ、それがなぜ脈々と受け継がれてきたのかを知ることは、自分が生まれ育った場所を深く理解するためにも必要なことだと思います。

それでも、親の頭を悩ませることがあります。それはイベントごとに、祖父母やおじ、おば、きょうだい達から娘あてに贈られてくるプレゼントです。
「あれ?テレビの上にレッサーパンダが寝ているような気がするんだけど」 仕事場から帰宅した私は、出迎えてくれた娘を抱え上げると、妻に問いかけました。
「気のせいじゃないわよ。この前、あなたのお父さんがうちに来てくれたでしょ。その時、途中のサービスエリアで見つけて買ってきたんだって」
「何のプレゼントだろう。誕生日はまだだいぶ先だけど…」
「月は違うけど、誕生日と日が一緒だって気がついて、買ってきたって言ってたよ」
「またそんな理由で買ってきたの? その前は、孫と初めて写真撮影した記念だって洋服を買ってくるし。その前は何だったかな?」
「確か、初めてiPadでビデオ通話をした記念じゃなかったかな」

その他にも、イベントの度にぬいぐるみやおもちゃが贈られてくるので、部屋の中には有名なネズミのキャラクターに加え、アンパンの形をしたヒーローとその仲間たち、二十二世紀からやって来たネコ型ロボットなどが所狭しと顔を揃えることになります。 色々とプレゼントしてもらうのは、本当にありがたいことです。しかし、初めは興味深げに遊んでいる娘も、次から次へと新しいものが与えられると、すぐ他のものに目移りし、最終的には空になったティッシュペーパーの箱や、使い終わったラップの芯などを手にしてニコニコしているのです。

眉をひそめる私に、妻は優しく語りかけてくれました。
「まあ、あんまりおもちゃが多くなるのも大変だから、もう少し順番に出すようにするね。でも大切なのは、プレゼントしてもらったモノじゃなくて、この子のために考えて選んでくれたみんなの気持ちだと思うよ。みんなプレゼントで遊んでもらうことだけが目的じゃなくて、元気に育ってくれるように、笑顔で毎日過ごせるようにっていう思いをこの子にくれたんだよ。その思いに応えられるように育てていくのが、私たち夫婦の役目だね」

天理教の教祖・中山みき様は、
「親となれば、子供が可愛い。なんでもどうでも子供を可愛がってやってくれ。子供を憎むようではいかん」
(教祖伝逸話篇143「子供可愛い」)

と教えてくださいました。

親となれば子供は可愛いものです。しかし、その思いを持つのは決して親ばかりではありません。祖父母やおじ、おば、親戚、友人など、周りにいる人たちは皆、同じように可愛いという気持ちを持ってくれているのです。
人間は一人で生きていくことはできません。周囲の人に支えられて生きていくのです。それは私たち夫婦も娘も同じです。これまでも、そしてこれからも、多くの人の支えを受けて成長していくことでしょう。
親としては、娘が大きくなった時、まずは周りの人への感謝の気持ちを忘れない人になってほしいと思います。そうであれば、まずは私自身が周りの人たちに感謝して通る必要があります。子供のことで誰かを憎むような心を持つことは、厳に慎まなければなりません。

私も、これまで色々な人たちから多くのものをいただきました。これから先、どれぐらい返せるかはわかりませんが、せめて私がもらった愛情に負けないぐらい、「子供可愛い」という心を持って通らせていただきたいと思います。

 


 
神様からの宿題
 人生の登り坂と下り坂

最近、ある登山家の本を読んでいたら興味深いことが書いてあった。「登山では、頂上を目指して登っているときよりも、下山するときのほうが遭難の危険性が高い」というのである。 その理由として、登山後の体力の消耗が、本人が感じているよりも激しいことや、登頂という目的達成の後の心のゆるみや虚脱感、それに加えて、山頂から見た下界の見晴らしの良さに錯覚して距離感を失い、思うように歩が進まないことに精神的な疲労が倍増してくることなどが挙げられていた。

登山の初心者ほど、下山の道を見失ったときにパニック状態になりやすく、落ち着きなく道を探して歩き回るうちに、体力の消耗を早めてしまうそうである。

たしかに、人は何かの目標を達成した後や、大きな失敗や苦しみを経験したときなどに、自分の生き方を見失ったり、焦って行動したことがマイナスに働いて、にっちもさっちもいかなくなったりすることがある。

たとえば、仕事一筋で定年を迎えて、何をしていいのか分からず抜け殻のようになってしまった人、念願のマイホームを持ってホッとした途端に、子供が登校拒否や家庭内暴力を始めて途方に暮れている夫婦、健康だった体に思いがけない大病を患った人など、それまで上に向かって登ることばかりを心の支えに頑張ってきた人が、その登った距離の分だけ、自分の心を見つめ直しながら坂道を下りなければならないことがある。そんなとき、苦しまぎれにあわてて行動すると、状況が悪化する場合が多い。

ベテランの登山家によると、雪山などで道を見失ったときは、まず雪洞(せつどう)やテントの中で休養をとり、心身の回復を図ることが大切らしい。気力が戻って落ち着いてから周囲を見回すと、思いがけないほど近くに、正しい道を見つけることも多いのだそうだ。

登ることに比べたら、一見、楽なように見える下りが実は大変なのである。人生の節々のなかで、誰もが自分自身の下り坂に正面から向き合わなければならない時期を必ず迎える。そのときは、一歩を踏み出す前にゆっくり深呼吸をして、心と体の休養を図り、そのうえで一緒に道を下ってくれる人と素直に話し合い、呼吸を合わせて、周囲の状況や景色に心を配りながら歩を進めることが大切だ。小さなプライドを捨てて、決して一人で意気込まず、自分自身を孤独に追い込まないことである。

最近の青少年事件の悲しくつらい報道を耳にするたびに、上に向かって道を進むことしか学んでこなかった子供が、道の下り方が分からずに荒れているような気がして仕方ない。自分自身の小さなプライドにしがみつき、自分を認めてくれない周囲に苛立ち、強い孤独感や根深い被害者意識にさいなまれて、事件を起こすまで自らの心を追い詰めていくのであろう。

「忍耐とは希望を持つ技術であり、希望のない忍耐は無意味である」という言葉がある。苦しいときほど希望を探し、喜びを探すことが自らの力を高めていくのだと信じたい。彼らの心の中に、明るく前向きな「希望」という言葉は存在していたのだろうか?

「登り坂と下り坂」。人はいつも道の途中にある。これもまた、神様の広く温かいお計らいに違いない。

(終)

天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に天理教の時間専用プレイヤーでもっと便利にもっと身近に

おすすめのおはなし