おやのことば 11月5日

立教169年の秋季大祭が、盛大に勤められました。今年は、教祖120年祭の年ということもあり、本当ににぎやかな大祭でした。神殿に向かう人々の流れを見ていると、170年近い歴史の重みを感じるとともに、この道を多くの人々や次の世代に伝えるために努力してきた、先人たちの苦心がしのばれます。

「通った中に道ある。真の心以て出来て来る。皆大抵やない」

教祖を通して伝えられた、親神様の「教え」を基にして毎日を生きる。その喜びを感じた人々が、教えの素晴らしさを人々に伝えて、多くの人を連れて「おぢば」へ帰ってくる。世話取りをする人々の努力は、並大抵なものではなかったでしょう。また、苦心した日々より以上の喜びを、ここで感じた人もあったかもしれません。

しかし、その道も決して自分一人の力だけで付けたのではなく、教祖が通られた最初の尊い道があって、初めて可能になることを忘れてはならないでしょう。

「山坂をも道を付けたら楽々の道も運ばれるやろう」

通るべき道がなくては、山中に分け入って進むことはできません。また、道に迷わないためには、従うべき道標も必要でしょう。この道は「をやが道を付け、だん\付け掛け、一人やしろに貰い受けて、始め掛けた道」(おさしづ明治26年12月16日)なのです。

教祖が何もない所に付けた道。親神様の教えを道標としながら、この「ひながた」の道をひたすらにたどっていく。そこに絶対に誤ることのない、真実の道が開けてくるのです。(岡)

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