おやのことば 9月16日

先日、奥さんに勧められておぢばに帰り、別席を運んだ男性にお会いする機会がありました。物腰の柔らかい素敵な方でしたが、奥さんから「私が身上になったとき、一緒に祈ってほしい」と頼まれ、別席を運んだそうです。ご主人の優しい人柄と夫婦の絆を感じさせてくれるエピソードです。

私たちは、人生の節目に出合うさまざまな出来事に対して、絶望するのではなく祈る手段が教えられています。

なかでも、自分にとって大切な人の深刻な身上は、しばしば深い喪失感と絶望感を伴うものですが、そんなときも自ら「さづけの理」を取り次ぎ、あるいは、どなたかに取り次ぎをお願いして、共に祈ることができるのです。多くの人々は、人のために祈る気持ちはあっても、具体的には何もできません。でも、私たちには素晴らしい”宝物”が与えられています。

「たすけ一条はこれからや。今日一日の日を忘れんようさづけ渡そ」

もちろん、親神様・教祖の望まれる「たすけ」は、家族や友人、地域社会の絆といった狭い人々のつながりに限定されるものではありません。

しかし、まず身近な人々の悩みや苦しみを共に生きるという意識がなくては、小さな「たすけ」の輪を世界に広げていくこともできないでしょう。

授けていただいた「さづけ」の重みを、決して忘れないようにしたいものです。(岡)

ページの先頭へ