
突然、中学生の息子に聞かれました。小学生のころは、「なぜ勉強をしているの?」と私が尋ねると、すぐに「自分に力がつくから」とか「自信がつくから」などと返答していたのですが、悩み多き年ごろなのでしょう。
親のほうから考えると、「なぜ勉強してほしいのか?」という問いになります。あらためて考えてみると、答えは難しい。息子が悩むのも当然かもしれません。
ただ、他人との競争に勝つとか、将来、裕福な生活をするといった、即物的な目的のために勉強してほしいと思ったことはありません。子供たちには幸せになってもらいたいのですが、乏しい人生経験から考えても、人の幸福は決して即物的なものではないと感じているからです。
「誠の容れ物拵え。十分の容れ物拵え。容れ物無しにはいかん」
この世界に親神様のご守護はあふれていますが、受け取る「容れ物」がなくては、ご守護を十分に頂くことはできません。結果としての物質的な豊かさよりも、あるべき人間としての生き方を身につけ、より充実した人生を送るために、さまざまな「勉強」をしてほしい。
一晩考えて、ゆっくり話をしようと思いましたが、今朝はもう、息子は悩みを忘れてしまっているようです。思春期の子供は分かりませんね。(岡)