
今から20年前、教祖100年祭のときのことです。当時学生だった私は、詰所でひのきしんをしていました。そんなある日、事務所で帰参者の応対をしていたときに、たまたま隣の席に居た人と体調の話になりました。
「どうも最近、胃の調子が悪くて……」と言うと、その人は私の胃の辺りに手を置いて、「何かしこりがあるね」と。
実はその前から、おなかを触ると硬いしこりを感じていました。さほど気に留めていなかったのですが、その人から何度も「大丈夫?」と聞かれるので不安になり、そのうち本当に心配になってきました。
詰所は連日、大勢の帰参者で忙しい最中でしたが、思い切って受診することにしました。当時の私は、ほとんど風邪もひかないような健康体でしたので、一人で病院に行くこと自体が初めて。緊張しながら診察の順番を待っていましたが、結果は「ただの骨です」というものでした。
胸骨の一部が普通より少し張り出しているようで、それがしこりのように感じられていたのです。あまりの恥ずかしさに顔が熱くなりましたが、同時に心から安堵したことを覚えています。
「案じるではない。神が入り込み、皆為す事や」
親神様の御守護によってこの世界があり、きょう一日の生命を維持することができる。言葉にするのは簡単ですが、信じ切ることは本当に難しい。健康な体をお借りしていながら、深刻に悩み案じることもあるのです。
「おさしづ」には、人間思案の愚かさを戒めるお言葉が少なくありませんが、そのようなお言葉に接するたびに、このときのことを思い出します。(岡)