おやのことば 6月4日

人前で教理を説明する機会が少なくありません。親神様の思召を人々に伝えるために教祖が通られた「ひながた」を思えば、私のような人間が、教理を他人に伝えることなどできるのか。今でも思い悩むことはありますが、自分なりに理解している教えの枠組みについて説明することは可能です(もちろん、教理に則しているかどうかを常に反省し、真摯に検証し続ける姿勢は必要ですが……)。

時には、気持ちが高揚して言葉に詰まるような日もあれば、その反対に、なぜか言葉が空回りするような、気持ちが入らない日もあります。ところが、原典や『教祖伝』の内容を淡々と説明した日のほうが、むしろ相手の反応が良いことも少なくありません。

人知を超えた親神様のメッセージを伝えることは、自分の思いを伝えることとは違います。しかし、自分なりの理解や言葉や思いを通さなくては、他人に教えを説くことはできません。「自分」というフィルターを通して、説明を超えた親神様の教えをどのように相手に伝えるのか。日々苦心を重ねている中で、今回のお言葉が目に留まりました。

「何処其処へにをい掛かりたというは皆神の守護」

教理を伝える言葉が、親神様のお言葉として相手の心に響くかどうか。伝え方の工夫について考えるばかりでなく、親神様の働きが現れるような教えの伝達の在り方について、思案を重ねる必要があるでしょう。同じ「おさしづ」の中では、「どんな所にをい掛かるも神が働くから掛かる」とも言われています。

どうか読者の皆さまも、この解説よりも「おやのことば」の原文のほうをじっくりと吟味してください。(岡)

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